ニューヨーク・タイムズ評(1994年10月8日 ジェームズ・オストライク)日本語抄訳:
かつてリムスキーコルサコフは『管弦楽法』を書いた。しかし三木稔と聞き比べた時、リムスキーは憶病者に思える。日本のものであれ西洋のものであれ、殆ど全ての楽器が、全曲中どこかで素晴らしさを発揮できるように作品ができている。だが、この作品が最高の歓喜にわれわれを導くところは、新たな精巧さで仕掛けられたすべての楽器が、同時に響き合いながら、あらゆる方向に火花を散らしつつ、驀進する時だ。三木氏の、東西を象徴する二つのテーマ音型の巧みな変容は、全曲にわたる統合を保証している。三木氏が成し遂げた異文化交配は、現在の聴衆に「未知への遭遇」を今、もたらしたのである。
ニューヨーク・タイムズ評(1994年10月8日 ジェームズ・オストライク)日本語全訳:
ニコライ・リムスキーコルサコフは管弦楽法の本を書いている。しかし日本の作曲家三木稔と聞き比べた時、リムスキーはけちん坊(または憶病者=米俗語piker)に思えた。木曜の夜、エヴェリー・フィッシャー・ホールのニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会のことだ。クルト・マズアは、西洋のフル・オーケストラと16人の日本楽器のアンサンブルを結び合わせた三木稔の《二つの世界のための交響曲(急の曲)》をニューヨーク・フィルに導きいれた。ちなみに日本音楽集団は1964年に三木氏によって創立されている。
1981年、マズアのもう一つのオーケストラであるライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の二百年記念に委嘱されたこの交響曲で、三木氏は厳格に西洋の交響曲の伝統を踏まえて東西の橋を架けようとした。とはいうものの、より多数で、より滑らかな西洋楽器群が、三木氏によって精緻に書き込まれたスコアの中で、まことに素晴らしく機能しているのに対して、より少数で古い日本楽器群は、結局は少々色を添えるに過ぎないかもしれないのに、(彼は)正面から立ち向かわせるようにした。
しかし、彼らは多くの色を加えた。そして三木氏は用心深くその手法を開発した。例えば、しゃがれた音色を持った、リコーダーのような尺八の長いメロディーに、囀るような西洋のフルート(の音型)を対置するといった組み合わせもよく使われている。だが稀な組み合わせもある。例えば、筝のデリケートな撥く音がブラスと併置される効果は、プロコフィエフの《ロミオとジュリエット》に滑稽なマンドリンとトランペットの先例があるにしても、めざましく独創的である。
日本のものであれ西洋のものであれ、殆ど全ての楽器が、全曲中どこかで素晴らしさを発揮できるようになっている。だが、この作品が最高の歓喜にわれわれを導くところは、新たな精巧さで仕掛けられたすべての楽器が、同時に響き合いながら、あらゆる方向に火花を散らしつつ、驀進する時だ。三木氏の、東西を象徴する二つのテーマ音型の巧みな変容は、全曲にわたる統合を保証しているのである。
中略(この公演で併演された《シェヘラザーデ》について)
デイヴィッド・ライトがプログラム・ノートで適切に述べているように、《シェヘラザーデ》のしなやかなオリエンタリズムは、三木氏の異文化交配が今成し遂げているのと同様な「未知への遭遇」をかつての聴衆にもたらした。
中略(《シェヘラザーデ》の演奏について)
三木氏は、コンサート前の日本音楽集団団員たちによる日本楽器の簡単な紹介を司会した。それぞれの曲の断片を聞かせてくれて有用であったが、聞き手としては、これら素晴らしく熟達した演奏家たちの一人、あるいは何人かの、より完全な音楽的ステイトメントを求めたくなってしまう。特に田原順子の琵琶(シタールのような響きのするリュート)の感動的な中世物語の詠唱を伴った演奏は、もっと長くやられるべきだった。
《二つの世界のための交響曲》は、エヴェリー・フィッシャー・ホールのニューヨーク・フィルの青少年コンサートで今日の午後に部分演奏された上、夜には全曲が3度目の上演をされる。日本音楽集団は明日、コロンビア大学のミラー劇場で、より多くの三木作品を演奏する。