異常な夏の終わりの報告


2009年8月末 三木稔

昨年12月18日から、今年の6月18日までの丁度半年間に、何しろ大きな手術を4回もやったので、戦後入院や手術をまったくしたことのなかった私も、さすがにまいりましたが、今は元気にリハビリをしながら、ゆったり作曲をしていますので、オペラ作曲の進行とあわせ御報告します。先に進むために1年近くを総括しましたが、前半(▲)は、少々内容が違うといっても、すでにHPにも書いてあり、ご存知の方も多いので読み飛ばしてください。

▲ 新国立劇場委嘱初演で「日本史オペラ第8作」となった《愛怨》作曲終期に徳島県知事から、2007年徳島国民文化祭グランドフィナーレの総合プロデュースと、そこで初演される1時間のフォークオペラ,及び10分のオーケストラ曲を依頼されました。《愛怨》完成後に取り掛かって間に合うので引き受け、結果的にフォークオペラ《幸せのパゴダ》と、地元のオケ・邦楽合奏団・合唱が演奏する《ふるさと交響曲》が誕生しました。

▲ フォークオペラは、半分せりふ、器楽も4人という構想で、台本演出を岩田達治氏にお願いしました。大水害に遭って稽古場にしていたお寺の本堂が取り壊されることになり解散直前の音楽劇団員7名の赤裸々な生き方に、戦時中南方の戦いで泥に埋もれて果てた兵士の霊が3日だけ甦って加わるという、ユニークなアンサンブルオペラの台本を得ました。グランドフィナーレの様々な行事の中で同じ会場でやるという極めて悪い上演条件にもかかわらず、岩田氏が神戸大震災で圧死された父君のレクイエムとして入れ込んで書き、ついつい上演時間も倍の2時間になったものの、無事初演を果たしました。

▲ しかし練習中から私は、この優れた題材に惚れ込んで、台本のスリム化と、せりふも含めた全篇歌唱化、器楽もオーケストラ化し、20世紀題材の「日本史オペラ第9作」としてのオペラ《幸せのパゴダ》に再作曲をしたいと志し、同調された岩田氏の綿密な新台本を得、2008年10月にボーカルスコアが完成、直ちにフルスコア作曲に踏み込んで、12月始めには第1幕第1場が終わったという進行状況でした。

▲ オペラ版は2幕仕立てで上演時間約2時間になる予定で、その第2幕冒頭の劇中劇は、フォークオペラ版のものを「ヴァージョン1」と考え、新たに登場人物みんなで『あの戦争は何だったのか』を問い歌いあう「ヴァージョン2」を用意する構想を岩田さんにお願いしていました。若い世代には困難であろうその部分の台本だけが未着のため、ヴォーカルスコアは、完成へのリーチ状態でしたが、500ページ近くになるはずのフルスコアは、この歳を考えると、間をおかずに着手すべきと考えていました。

▲ その時期、各種の検査をしていた杏林大学病院で、頭部の硬膜下血腫が危険状態だと指摘され、結果的に12月と今年1月に、硬膜下血腫を取りだす2回の手術をしたときは、今このフルスコアを下書きでも完成させないと、すでに30数年を要して進めてきた最大のライフワークが仕上がらないという思いつめた気持ちが強烈に働いていたと思います。病室に大きな五線紙を持ち込み、入院中も正月もなくオーケストレーションを進めて、2度目の退院直後の2月上旬、フルスコア完成にもリーチ状態となる450ページを書き上げたことは、すでにいろんな方にお知らせしました。

★ この頭部手術後の療養中、去年の夏に改作準備が終わっていた邦楽器による伝説舞台第2弾の《浄瑠璃姫物語・異聞》が、邦楽創造集団オーラJ 23回定期で満員の聴衆を得、大変好評裡に上演されて安堵しました。すぐさま下記の小オペラ《きみを呼ぶ声》の作曲に入ったのですが、この創作もまた私の体調では予想もできなかった狂気の展開になりました。

★ このオペラは前年秋に話があったものの、オペラ制作の現場から遠い静岡県御前崎市のヴォランティアグループから1時間半程度のオペラ創作として頼まれていたものです。日本各地の自治体施設や劇場関係者以外の愛好者にとっては、私の「日本史オペラ連作」のような規模のオペラでも、小説のように個人レベルで実現が可能で、複雑な仕組みと予算にまで考えが行くことはないのが当然だと思います。こういうことを詳しく説明したものが少ない業界やジャーナリズムに代わって、私は理を尽くしてオペラ制作の現状を書いて送りました。同時に当初案の現地ストーリーはオペラには向かないので、朗読劇に転用し、オペラは45分〜60分程度で基本から新たに考え、それと併演をしたらとの提案も書き込みました。私としては、その規模のオペラでも作曲する機会を熱望している若手が沢山いるので、彼らに仕事を提供しようとの前提で提案したのですが、代表者の石原典子さんは、オペラ制作についての私の説明を正確に理解し、同意してくれたものの、作曲はあくまで私に頼みたいとの強いプッシュを受けました。

★ 後に退けなくなった私は、そのヴォランティアの最初の提案による、ないない尽しの条件を逆手にとって、この不況下でも、小団体でも、舞台装置がほとんどなくてもアプローチできる、4人(sop.,mez-sop.,ten.,bar.)のソリストと、女声合唱と、ピアノによる上演時間1時間以内、一幕仕立てのオペラとして書こうという構想を立て、プロットまで作って再提案しました。提案は文句なく受諾されたものの、この小オペラ上演のための資金集めの成果を想定すると、ヴォランティアに近い協力的な台本作者や演出家を見つけなければ絵に描いた餅になると考えながら、そのとき空けてあった今年4月〜7月を当てて、とにかく書いてみたい、あとはなんとかなるさ、という今考えたら信じられない状況下にいました。

★ ところが、今年の音楽祭に招聘したGONNAという打楽器グループをプロデュースしている名古屋の演出家の金子根古さんが、幸いにも協力を申し出てくださり、彼と度々仕事をしている一橋大学準教授の竹村知子さんが私の構想に沿った台本を書き進め、難航しながらもなかなか素敵な終着点が見えてきました。

まだ頭の手術の結果が出ていない3月にそのオペラ《きみを呼ぶ声》に取り掛かり、まず、完成したら15分程度の女声合唱組曲《岬・道行》になる全6場の前奏部分が、各場の自然情景を歌う美しい詩で書かれているので、それを仕上げ、次いで第1場のスコアが書きあがるところまで作曲も順調に進みました。5月中旬にはMRIやCTでチェックした担当医から頭部の状況はほぼ完璧に回復したと言われ、一人でちょっぴり板打ちテニスをし、横でゲームを満喫していた仲間たちとビールで乾杯して、いつもの陽気なランチを一緒にしたものでした。

★ その数日後、またしても異変の襲来です。突然便秘が続き、近所の医者の浣腸や下剤も効かず、とても仕事ができる状態でない数日が続きました。そんな体調を押して、予定されていた徳島での仕事に行くため、何も食べずに無理して空路徳島に行ったものの、電話連絡をした知人が私の声を聞いて危険を察知、近所の医者の強烈な腸閉塞との見立てで、真夜中に救急車で日赤病院に運び込まれ、喉から通した管で上に食べたものを抜いたり、点滴と痛み止めで抑えつつ5日後帰京、羽田から直接杏林大学病院に向かい、直ちに検査のため一時的な人工肛門作りの手術。なんとも不思議な自分の内部としょっちゅう顔を合わせながら、様々な検査で腸閉塞の原因であった結構な横行結腸がんの手術準備に20日間を置き、6月18日、針一本しか通らなくなっていた患部の切除手術を数時間を要して行いました。不幸中の幸いは、患部からとった19個のリンパ節がすべてマイナスで、がんは残っておらず手術が大成功だったことです。

★ しかし今回ばかりは、小オペラで伴奏がpfだけとはいえ、《きみを呼ぶ声》の1時間のスコアを完成させるのは不可能になったのではないかと悩み続けました。まして、ほとんどを手作りでヴォランティアの総力を結集してやろうという上演態勢で、10月31日には静岡国民文化祭参加で初演するという切迫した状況なのです。こんな時でも作曲家の宿命は避けられず、台本と五線紙に加えて、今回はミニキーボードを病室に持ち込んで初演に間に合わそうと決心したオペラ《きみを呼ぶ声》の残りの2/3は、なんとか練習に差し支えない方策を考えて楽譜を逐次送り出しました。7月10日に退院して、痛みの残る中を押して書き続け、21日には痛みも止まり、第5場の歌手の旋律まで進んだところで、仕事の無理か、いろんなストレスのせいか十二指腸潰瘍が発生し、輸血寸前までヘモグロビンの数値が下がり、その治療のため27日再入院しました。今回はあわせて70日も「美しい看護師さんたちの呼ぶ声」に惑わされて、建物も美しい杏林病院外科病棟での入院生活を送ったことになります。

★ 企画を立てて出演のお願いまではしてあった、8月7日開幕の第4回八ヶ岳「北杜国際音楽祭」は、この世界大不況による予算減に対応するため、例年より数ヶ月遅れて5月初めに最終GOサインが出たので、内容や集客作戦を短期決戦型に切り替え、榊原総合プロデューサーとNPO事務局にすべてを集中して預け、彼らがスムースにこなしてくれたので、音楽祭は一切支障をきたさず、むしろ例年より濃い内容もある主催5公演が11日まで高レベルでやれたと思います。私はオープニング直前の8月5日退院、6日北杜行き、潰瘍食と薬で治しながら、7日開幕のすべての主催公演本番に列席しました。私がいないとできない《源氏物語》のワークショップは、昨年の《愛怨》に感動した聴衆のリピーターも多く、森羅ホールに8割入った聴衆が真剣に見守るので、まだ完璧ではない体を鞭打ってしゃべり続け、去年に劣らぬ感動を残し得たと安堵しています。興味のある方のために07年から毎年書いている『八ヶ岳「北杜国際音楽祭」2009を終えて』と題する詳しい芸術監督の回顧文を、今年は責任上特に念入りに執筆中で、9月に入ってしばらくしたら、音楽祭の公式ホームページwww.hokutofestival.comにアップしますのでご覧ください。8月14日で3つの参加公演も無事終わり、最後日の地元の女声ソリストのトリオや、山梨で優勝の女声合唱、献身的なピアニストたちに、来年は特別参加公演で《きみを呼ぶ声》をやろうと盛り上がったというエピソードも追加しておきます。

★ 尚、9年前から放射線とホルモン治療でなんとか制御している進行性前立腺がんの数値は、ホルモン治療が2年前から効かなくなっているはずにも関わらず、神の御加護か昨年12月の数値を奇跡的に維持し、これから始める女性ホルモン剤服用に必須の血さらさらの薬を飲んでいては、度重なる手術とは相容れないという危機的な状況を、今まで回避できています。

★ 音楽祭後、そのまま12年目を迎えた山荘で、妻と二人水入らずで、2週間ほど冒頭のような状況で過ごし、オペラ《きみを呼ぶ声》のスコアも仕上がって、8月28日に帰京、選挙にも行って来ました。

ただ、第20回「福岡アジア文化賞」を受賞して、日本人が初めて受けるせっかくの「芸術・文化賞」の東京記者会見時(7月23日)は、体重は昨年63キロあったのが、4回の手術で48キロに、ヘモグロビンも7まで減って人に見せられる体ではありませんでした。今は体重も4キロほど戻り、血が減って白くなっていた体も赤みがさして元気で、毎日いろんなリハビリを心がけています。まだ潰瘍食ながら食欲は旺盛で、9月17日の福岡での授賞式や、18日中学生との交流会、20日文化フォーラムでの対談やコンサート等が平常にやれるよう頑張っています。


三木 稔