1月23日に日本音楽集団が津田ホールで行う定期は、「日本音楽集団で育った二十絃筝の40年」の過去と未来というタイトルで賑やかに行われるが、私の作品も二十絃筝ソロ第1曲《天如》、その7年後に作曲した《華やぎ》、そして尺八とのデュエット《秋の曲》が演奏される。
この楽器は1969年、集団創立後5年目に20絃で生まれ、2年後に21絃になったので、200万の21絃筝を弾く演奏人口を持つ中国との整合性と、国際的な作曲・演奏技術の発展のために絃数や呼称の統一を図って、私は21に因んだ「新筝」と称することとし、当面(にいごと、21絃)と書き添えている。昨年10月には、邦楽創造集団オーラJ24回定期で、40年を記念して「新筝協奏曲特集」を企画演奏した。英語では71年から21- string kotoと書いている。現在の混乱を申し訳なく思うが、"Change"は一瞬の発言で決まるとはいえ、その普遍化は、さまざまな要因が絡んで極めてスローなのが世界的現象なのでご容赦いただきたい。
私は日本音楽集団の音楽監督として「日本音楽集団の箏奏者はこの楽器で」との方針を推し進めて、多くのトライが成功してきた半面、反発やトラブルを一身にかぶってきた私だったが、1984年にオペラに専心するのが主目的で、自ら創った日本音楽集団を辞した。それまで15年間中心にいた野坂恵子さんも退団し、この楽器の命運は沢山輩出した若手の頂点にいた吉村七重の双肩にかかることになった。
彼女は自らの演奏に磨きをかけ、若い演奏者育成のみならず、多くの優秀な作曲家への委嘱も、吉村は中心に立って進めた。やや勢いの止まった現代邦楽の厳しい環境の中でも一切揺らぐことなくここまで頑張ってきた彼女に、心から感謝している。集団外でも、個人塾として「邦楽展」を経営し、地方や海外公演はひきも切らず、私の個々の作品を方々で演奏するプロデュースもしてくれている。