遂に新たな節目が来ましたね。出入りの激しい現代社会状況にも拘わらず、田村代表初め、頑張っている現役の皆さんに心から感謝します。私は、かつて存在しなかったこの分野だからこそ、互いに切磋琢磨して向上する複数の団体が必要と言い続け、あろうことか自分で辞してオーラJを創立し、残された時間で出来る限りの努力をしていますが、日本音楽集団に関しては1964年の創立以来20年間、西洋音楽にはない新しい音楽の供給源となれるプロフェッショナルな演奏集団、いや東洋を背負う創造軍団といっても強がりではないほどの抱負を持って、あらゆる角度からの努力を惜しまず、邦楽器の現代化・国際化に臨んだ記憶はどこまでも新鮮です。
当時私の心根に組して、厳しくも熱く応援してくれた方々、一方で火花を散らして対峙した作曲家・評論家・ジャーナリストの多くは逝き、80歳になってまだ第一線にいる私は強い孤独感に苛まれることがあります。私が全力を傾倒して次々に新しいプロジェクトをこなしていくことができた70年代から80年代初めにかけて、まさに黄金期の燃えるような集団は夢のまた夢、と諦めつつ、書き綴った音符や言葉が媒介して甦ってくる若い世代のパッションに出会うと、今のアーチストたちとは気質が違うとの思い込みはどこかへ、君たちに託したよと安堵することも結構多くなっています。日本すべてがトーンダウンしている中、今頑張ればかならずこの分野は頭一つ先に出られるでしょう。期待しています。
作品については、「1960年代や70年代に、よくこういった作品を書いた」と感歎した、ひと世代下と思われる作曲家に休憩時は捉まって、挨拶しようと待っていた多くの人たちと会話の機会を逸した。私の作品になじんでいるファン達には、最初の《わ》を演奏した集団の若手はまだ模範解答的な固さが感じられたとのメールを寄越す人もいたが、数日で免許皆伝とは行かないもので、私は大進歩だと思っている。
三橋貴風の《ロータス・ポエム》は、期待にたがわず美しく清潔な音色で、この難曲に日米戦没者へのレクイエムとしての本来の格付けをしてくれたと感謝する。本人はまだまだと再度挑戦する気概を見せてくれたが、アンサンブル部分も指揮の田村文生との綿密な打ち合わせをしたらしく、ソロと寄り添う作曲の狙いに応えていたので文句はない。休憩明けの《四群のための形象》は、不可抗力で練習不足だった章を除いて、どの群も大人の演奏をした。特に《檮》の二人は、対決の構図を表現するアイディアも突き詰めてきており、聴衆をひきつけた。代表の田村拓男が指揮した《ダンス・コンセルタント1−四季》は、集団が方々で演奏している十八番で、最近はアマチュアのグループや高校生がアプローチするのに本当の模範解答を示す責任感が出てきたのだろう、昔のほうがうまかったとは言い難い素晴らしい仕上がりを見せた。創立以来残っている数少ない団員で代表の田村君は暗譜で立って振り、入れ込んだ気持ちを隠すことなく、彼の最高の舞台だったのではあるまいか。
《四群のための形象》の第3曲《曲(くせ)》で、左指の故障で演奏者生命を賭けている田原順子の気迫といい、数十年前の戦友がまだ中心にいて奮闘している集団の永遠を願って、ほぼ叶えられた昨夜は心和む定期200回シリーズ第1夜だった。