私にとって2008年1〜2月にダンテの「神曲」をテキストとする合唱作品作曲コンクールの審査でスイス(及びパリ)に行って以来、2年ぶりの渡欧となったハイデルベルク行きだ。すでに20に余るポジティヴな批評や、チケット売り切れが続いて、成功が確定している《愛怨》のヨーロッパ(ドイツ)初演なので気持ちは平静だったが、実際に2回のレクチャーの反応と最終公演を見聞きして、この大規模オペラが、上演を度重ねるシステムがない母国に期待が出来なくても、今回だけでなく、近い将来海外の方々の劇場で適度の上演チャンスを得るに違いないという確かな感触を得たのは、80歳を過ぎた私には何より喜ばしいことであった。その理由を集約すれば、現在のような世界的経済危機で文化予算が軒並みカットされ、充分な視覚的上演効果に頼ることが出来なくても、また、その国の言葉によるヴァージョンが準備されないまま、現在の日本語版での上演しか出来なくても、劇場やスタッフ・キャストが情熱を持って取り組める作品であり、不特定多数の聴衆が度重ねて鑑賞したいという気持ちが沸き起こるオペラであることが立証されたことにある。
もっとも、5回もの手術が続いたこの1年半、海外への旅行などとてもできなかった私にとって、機上で半日を要するドイツ行きは、大決断を要するものであった。1968年に東京リーダーターフェルの第1回渡独公演の途次にハイデルベルク城に立ち寄った記憶から42年、日本人にとって青春のイメージ濃い、ドイツ最古の大学のあるネッカー川沿いの風光明媚で懐かしい彼の地が、私の生涯忘れがたい場所になったのはまことに幸運である。
私の海外活動のうち器楽公演は、1972年の日本音楽集団第1回海外公演以来、毎年のように自身で企画し、自作の演奏のみならずプロデューサーとして資金集めから心血を注いで160〜170回にはなろうか。一方オペラ公演では、「日本史オペラ連作」中の5作について、今回が1979年ロンドンでの《あだ》世界初演以来、海外の劇場や音楽祭のシーズン企画で上演されて計40回目になる。指揮までした《あだ》米初演、イリノイ大学での大学初演を含め、毎回平均2ヶ月は現地のすべての練習や殆どの上演に立ち会ってきた。しかし、バブル絶頂期の1990年、サボンリンナ・オペラフェスティバルに招待された二期会・都響による《春琴抄》上演と、次の1991年カーネギーホール100周年に招待された若杉弘指揮の都響が、唯一の日本人作品として《序の曲》を選び、最先頭の1等席を用意してくれた以外、1等はおろか一度もビジネスクラスを利用する機会などなかった。恵まれたクラッシック音楽の有名アーチストはいざ知らず、百年先の成就を信じて自分をモルモットのように実験台に乗せ、手弁当が当たり前の国際的な活動を常時行う、貧困が代名詞の作曲家としては、隔壁が破れたら一番最初に吸い込まれるエコノミークラスの最後尾を定席とする身を、むしろ誇りにしてきた。
しかし今回は一年前から、様々な不安が頭をよぎり、5月からは強度の頻尿に襲われて、何度かビジネスクラスの手立てを考えたが実現せず、狭い機内で体が持つか持たぬかの怖れのみならず、青春の地で命を終える幻想すらずっとこの身に付きまとって離れなかった。尤もそれは、出発前に37年かかったライフワークが、オーケストレーションの一部を除いて完成していたので、甘美なヴィジョンですらあった。
【注】私は帰国後に第9作《幸せのパゴダ》のオーケストレーションに復帰し、大安の6月30日無事フルスコアを脱稿した。これで「三木稔、日本史オペラ9連作」は真の完成を終えたことになる。
6月1日成田出発以来、日々元気になり、よく眠り、2回の大レクチャーを果たした上、5日《愛怨》ヨーロッパ(ドイツ)初演最終日も、2つの長いインタービューをこなした上で、3時間のオペラを集中して聞き、直後の打ち上げは夜中の2時までしゃべり続け、6日朝は色んな人と挨拶やら打ちあわせをこなして、午後マインツ周辺の観光をした上、夜9時フランクフルト発、7日午後成田着で元気に無事帰国することが出来た。不況下に《愛怨》鑑賞ツアーを組織し、大変な気苦労や出費を押して成功させた私の応援団「結の会」会長の落合良さんを始め同行の方々、オペラ鑑賞ツアー専門の旅行社ラテーザを経営する上月さん、独自のツアーを組織して4月の公演にいらっしゃる予定がアイスランドの火山噴火で没になり、この最終公演にスケジュールを調整して参加なさった88歳とは信じられないお元気さの瀬戸内寂聴先生と一行の方々、という日本からの心強い参加者すべてのご親切に、先ず心からの感謝を捧げる。
そして私のVielen Dank!は、次のドイツ側の方々に申し上げたい。まず、自分たちの劇場の建て直し中の緊縮財政と、世界を覆う同時不況の中で、巨大な《愛怨》というグランドオペラを、自分たちが”What a beautiful masterpiece !”と信じるがゆえにドイツ初演を自分たちでしたいと熱望し、Opernzeltという代替のテントで、ましてや日本語で! 立派に8回の上演を果たしたインテンダント:Peter Spuhlerぺーター・シュプーラー氏、オペラ監督Joscha Schabackヨッシャ・シャーバック氏初め、ハイデルベルク劇場のすべてのadministrationスタッフ、ブラボーもののソリスト・合唱団・オーケストラ・舞台スタッフ、そして日本語のコーチで大健闘したミークス貴子夫人(ご主人が大野浄人を演じた)と合唱でバスを歌う豊田さんたちである。貴子さんは、豊田さんの聡子夫人も含めて、日本人関係者として現地に不慣れな私達ツアー一行に最大限のご奉仕を惜しまなかった。当然最大級の謝辞を捧げたい人たちだ。
また、私の2回のレクチャー原稿の独訳をまことに丁寧に用意してくださったうえ、それを元にご自身の薀蓄も傾けながらレクチャーを進めてくださった国際交流基金ケルン日本文化会館公演事業担当役Heinz-Dieter Reeseハインツ=ディータ・レーゼさんは、ケルンとの片道3時間を確か4度も往復運転してハイデルベルクに来てくださった。まるで今回の私の訪問の生き証人のように…。
まだ20歳代前半の四戸陽子さんはハイデルベルク大学の会議通訳学科の修士だが、大変な能力を持ち、難しい私への質問と返答を、猛烈な記憶力とスピードで同時通訳的に処理し続けてくださった。皆さんホント、本当にありがとう。
5月中は気温が20度に達せず、雨も多かったという異常気象のハイデルベルクは、6月1日私達の到着と同時に暖かさが戻った。旧制高校の合唱仲間とシューマンの「詩人の恋」で心に染みついていたドイツの美しき5月が、ひと月遅れで我々を歓迎してくれたようで、心温かくなった。2日17:00、ハイデルベルク大学の音楽学科・日本学科・中国学科共同主催で行われた私の「日本史オペラ9連作」レクチャーには教室に満員の熱心な方々が集まり、各オペラから平均7〜8分選んで編集して持参したDVDで具体的なイメージを感じてもらいつつ、独立独歩で歩んできた私の作曲家としての持論を展開した。英語でなくドイツ語で進めるレクチャーのため、レーゼさんが前もってドイツ語に翻訳する必要があり、いつものように原稿なしとはいかず、できるだけコンパクトに大筋を日独語対訳の原稿化して当たったが、37年かかった連作オペラを理解してもらうには予定の1時間半では到底収まらず、《愛怨》は既に終った公演を見ている人が殆どなのと《愛怨》に特定したレクチャーが4日にあるので触れずに2時間半、いや終ったのは20:00近かった。でも誰一人帰らず、休憩も取るチャンスもなく、頻尿を恐れていた私は内々地獄を体験しているのかと思い惑った。レーゼさんがドイツ語でしゃべっている間に何とかトイレに行って質疑応答。これは四戸さんがてきぱきと通訳。後の会食中の主催3教授や聴講者の話では、予測も出来なかった「日本史オペラ9連作」を80歳で完成させようとしている作曲家の仕事を充分理解してくれたようだ。追ってレポートなどでキチンとした反応があるのかもしれない。今回、大学と劇場とケルン日本文化会館には、初演を終えている8作のDVD資料を寄贈してきたので、今までにない広がりも期待している。
ハイデルベルク大学音楽学教授のDorothea Redepenningさんには、1984年ベルリンでの《急の曲》のエアチェック録画も差し上げてきたが、次の日すぐにメールが来た。武満徹「ノーヴェンバーステップス」では『対立』ということで東西楽器が一切交わらないのに疑問を持っていたが、《急の曲》では各楽器の対立を踏まえて、巨大な融合にいたる道程が確実に実践されているのを確認できて、今後自分が音楽学を進めていくのにおおいに役立つとあった。「ノーヴェンバーステップス」と私の《急の曲》を比較検討する論議は、80年代にアメリカのある教授の論文でよく知られていると聞いていたが、ヨーロッパで私が現実に反応を知ったのは始めてである。
寂聴さん一行が到着した3日には晴天が顔を出した。さすが先生!きちんと岩戸を押し広げてドイツ入りをなさったと嬉しかった。この日の昼間は42年前に出会った青年がGermersheimの自宅にどうしても私達夫妻を呼びたく、11時ころ出かけて、Schwetzingen音楽祭で知られている豪華な城やSpeyerのKaiserdomを経て平和な彼の家に歓待される。第2次世界大戦初期に独仏が戦ったジークフリード線とマジノ線の戦跡に近いとはとても思えないのどかさであった。寂聴さんの到着は22時近かったが、同行の「女性自身」取材班3人と元気なご様子で、4日には劇場首脳の案内で、ご一緒に市庁舎訪問。超VIPのみが大きなページ一杯にサインできるGold Bookに二人でサインの後、記憶以上に大きなハイデルベルク城観光をし、昼はドイツビールで乾杯をした。
4日レーゼさんやシズカと再会、19:30から劇場での《愛怨》レクチャーは、2日に映すことが出来なかった世界初演の市販DVDから20分程度をメドレー的に用いた。寂聴さんにも10分程度しゃべっていただいた。今回の公演では日本語上演でもあり、オーケストラが舞台奥のコンサート位置に置かれて、客席の前部とオケピットのあたりを演技エリアに使用しているので、音楽的というか、オーラルには新国の場合と大きな変化はないと思われるが、背景や衣裳は全く違う。1300年前の現実により近いヴィジュアルな側面を知ってもらい、作曲時念入りに考証した奈良と唐の時代精神を理解してもらうため、このDVDショウは絶対に必要と考えていた。既にDVDを見ている人には、私の創作姿勢がレーゼさんの通訳を通してきちんと伝わったと思う。このレクチャーも1時間半の予定が2時間はかかった。暖かくなったせいか、この日は体調もよく、最低限の勤めを果たした満足感が残った。1枚だけ残っていたチケットも売り切れ、オペラ監督のヨッシャ・シャーバックさんが「後数回はやれた」といいながら「明日は立見席を出す」と誇らしく宣告した。彼の前任者やインテンダントのシュプーラーさんも含めて、集客上大冒険と思われていた《愛怨》の8回の上演を、前述の”What a beautiful masterpiece !”という言葉で私に許可を求めてきた彼らにとって、ハイデルベルク劇場のみならず、ドイツの劇場での現代オペラでの100%近い入りの記録は当然誇ってもいい成果なのだと思われる。
6月5日、急に暑くなり日中30度を超えた。冷房のないOpernzeltの中は、上演時暑さと湿気とで大変だとの懸念が方々で聞こえた。14:00頃、フライブルクに住む《あだ》ドイツ初演演出家メーリンクさん・深海恭子夫妻と息子・娘一家が、スイスでの仕事の間を縫ってきてくださり話に花が咲く。以前この劇場に《あだ》の資料を送って上演を促したが返事がなかったそうだ。あれだけミュンスターで成功だったのに外国作品が定着するのは難しいことだ。《愛怨》も楽観はしていない。17:00ラインネッカー紙のインタービューを受け、続けて17:30から南西ドイツ日独協会の20名ほどの方々の質問攻めに応える。
最終公演は19:30からOpernzelt。ヨーロッパのオペラ劇場のレパートリー公演では当たり前のことだが、どんなに間が空いても公演2日目以降は一切練習なしのぶっつけ本番である。今回はプルミエ前の練習は綿密で、オケ付で9回も舞台稽古があったそうだが(その後に止めながら行うHPと、本番同然のGP)、当初から浄人役に決まっていたWinfried Mikusヴィンフリッド・ミークスさんは鼻の手術で8回のうち後半の4回だけしか出られなかったため、オケ付の練習は一度も経験せず、ヴィデオを見ながらの独習で相当にプレッシャーがあったと思われるが、そんなことは一切感じさせない、こなれた演唱で感心させられた。
私の日本史連作オペラのうち3管編成の大オケを使うのは《ワカヒメ》《静と義経》と《愛怨》の3作だけだが、新国立劇場の初演では弦に16型を希望したら16,14,12,10,8という、オケの定期でも近年は普通使わない豪華な編成、新国でもワーグナー以外使ったことがなかったという贅沢が出来、冒頭の小序曲の最初のコントラバスのG音に録音担当者が感動に震えたと言っていたが、勿論海外の通常のシーズン公演でそんな贅沢なオケを抱えているのは稀だろう。ハイデルベルクでは半分の8型だが、管は3管をきっちり契約で抱えていて、ピットでなく舞台上に並んだオケは、ピットの奥深く沈んだ位置でなく聴衆の眼にさらされていることもあり大変元気で、特に金管はやや鳴りすぎの嫌いはあった。しかし流石音楽の国ドイツ、地方都市でも全楽器日本での初演に劣らぬ技術と迫力を聞かせた。私の感覚ではもう少しゆったりと歌いたいところが散見されたし、間合いの取り方が基本的に違うことを感じたが、構造的な側面では指揮のDietger Holmディートゥガー・ホルムは、全曲をよく理解掌握していたと思う。ピットの舞台寄り1間幅位をセットと通路に利用する以外、客席より前部と、客席を半円形に続けて演技エリアにしているため、彼の指揮はカメラで捉えられて、客席の直ぐ前に置かれた4台のモニターに映し出され、歌手たちは指揮者の方向を見ることなく見事なアンサンブルを展開できる。日本でもサントリーホールのホールオペラではこの方法でやられていると聞いたことがある。
日本人にとって、作品が日本での世界初演で成功し、そのライヴDVDまで市販されている状況下にあっての今回のドイツ初演で、最大の収穫はドイツの歌手たちの美しい日本語であることに誰も異存はあるまい。勿論細かい不慣れはあるが、総じて立派に日本語で演唱した。「ロシア語などと比べて日本語はずっと気持ちよく歌えた」と主役の誰かが言っていた。これは日本人の間で「日本語はオペラに向かない」と長年言われてきた風説を覆す大革命である。打ち上げでインテンダントのシュプーラーさんが素晴らしいスピーチをしたが、その中で「私達は最初からこの《愛怨》を日本語で歌うことに疑いを持ったことは一度もなかった。なぜなら日本語で作曲されたこのオペラは、その音楽と切っても切れない一体性があるはずだからだ」という大正解を述べられたが、長年ヨーロッパのオペラを原語で歌っている日本のオペラ界の逆転現象ながら、自国の言葉を非オペラ原語と決め付けられてオペラ嫌いになっていた人が聞いたら快哉ものであろう。私は、「オペラは上演する国の言語で」という説で、国際化のために連作の半分は完璧な英語やドイツ語版を持っているが、その各オペラの日本語版も同時進行で作曲しオリジナルと言ってよい配慮をしている。しかし日本の作曲家の大規模なオペラがドイツで、日本人以外の歌手たちで、たぶん史上初めて上演され、沢山のリピーターを含む満員の客をほぼ全公演で集め、いい批評を沢山貰ったのだから、寂聴さんの美しい日本語に適切なメロディーを付けたことを充分誇っていいように思う。それにつけても08年の終わり頃、ハイデルベルク劇場の求めで、日本語全台本をヘボン式ローマ字に対訳としてつける作業や、それをヴォーカルスコアの音符と1音毎に合わせてコンピューターに打ち込む作業を、あるいはヴォランティアで、あるいは一切の儲けなしで完璧にやってくれた数人の仲間達に、是非皆さんお礼を言ってあげてください。
歌手たちも流石ドイツだった。ソリストは皆ベルカントでレヴェルが揃っている。桜子/柳玲の韓国人ソプラノHye-Sung Naへ・スン・ナは練習から常にフルヴォイスで歌い、リリックだがスピントのように強い。最終日は風邪気味だったそうだが一切そんな不安を感じさせない美しい声と真摯な演技を通した。最初の4回で浄人を歌った同じ韓国出身のByoung-Nam Hwangビヨン・ナム・フワンも、先述したミークスさんの美声と違った強い声をもち、若草皇子のSebastian Geyer、阿部奈香麻呂(唐で朝慶)のAaron Judisch、玄昭皇帝のPeter Felix Bauer、それに猛権や隆祥まで細身のハンサム、女性ソリストも是非「北杜国際音楽祭」に呼んでみたい光貴妃のSilke Schwarzや、暗いはずの存在である影巳のCarolyn Frankまで美声の美人がハイデルベルク市のような小人口の市立劇場の契約者に揃っているのは、到底日本では考えられない現状である。ただ私は日本の古典芸能や現代芸能のよさも判るので、仮に悪声でも声にもっと個性があったほうがオペラでも面白いのではないかと思うところがあった。尤も50もあるドイツの劇場みんな違うのであろうが….。
若い女性演出家のNelly Dankerネリー・ダンカーは08年の夏来日し、私のオペラのどれかをドイツで演出したいと希望していたが、望みが叶って《愛怨》ドイツ初演の最大の功労者となったのだと思う。ハイデルベルクが3年かかる劇場建て直しの間テントを使う特殊事情を逆用して、元の劇場のオケピットでは収容できない大オーケストラを舞台上に上げ、ピットと客席前部を演技エリアにするフォーメイションは、彼女が熟慮の挙句選んで進言したのだと思うが、演技エリアが客席に近いという利点を生み出し、ドラマはよどみなく流れた。日本人聴衆には大きめのオケの音量のため日本語が聞き取れない箇所も出てくる不満も、上部に写されるドイツ語字幕でストーリーを追っている観客には、平土間で演じられるドラマの機微を理解できる方法である。作曲家である私にとっても、予算縮減のため背景や衣裳の贅沢さを期待できない代わり、自分でしつらえた声楽と器楽の両面からする音の絵巻を、ピットにオケが入った通常のオペラ公演では味わえない角度で堪能できた。尚、美術と衣裳のAndreas Auerbachアンドレアス・アウエルバッハは、全曲を通して舞台上手からピットをまたぐ赤い橋が、演技エリアに延びたところでピット前面に直角に曲がり、下手の半ばに達するとZ型に客席に向かい、客席の最下部の下手側入り口に抜ける同じ赤の導線を基本として設定した。ネリーのアイディアであろうが、一幕前半奈良のシーンでは背景として、例のピットを利用した通路の客席寄りに、50本くらいの高さを異にする竹のような棒ですだれの効果を作ったり、二幕前半の長安の王宮のシーンでは、そこが玉座になったり、一,三幕の碁の勝負シーンでは、勝負する2人を合唱が囲んで、緊迫感は急速な16分音符のパッセージが強弱で表現する音楽に任せる抽象的な方法をとった。演技エリアの上手に一本の裸木が立ち、その下に竜安寺のような数個の石、手水鉢が置かれる。若草皇子が捕えられるシーン、合唱の男女は面を着け、引かれる皇子はまるでキリストのようで、私はつい笑った。上演企画が決まった後で世界を覆う同時不況のための予算減を、苦心してカバーしたことをネリーは告白してくれた。
新国の演出でも二幕後半皇帝と貴妃のシーンは、寂聴さんの面目躍如たる台本の面白さを演出が存分に出したが、ハイデルベルクでも美人歌手Silke Schwarzジルケ・シュヴァルツの大胆なセクシーな演技で大いに笑わせてくれた。スイスの著名な作曲家で指揮者チューリン・ブレームさんは4月に見て、このシーンに男女の機微を一番感じたと拍手を送ってくれた。ここや貴妃のアリアでの合唱との掛け合いには期待していたが満足に足るものであった。合唱団員が小さなソロで演じるときは歌にばらつきがあり、日本語の判りにくい人も散見されたが、全体で合唱するときはよく訓練されて文句なかった。コア・マスターも「合唱の書法は完璧だ」と言っていたそうだ。
ドイツのオペラは演出過多で評判が悪い時が多いが、ネリーはこの悪条件下よく頑張ったと思う。ただ、度々見に来て全体に最大級の好評を書いたマインツ・アルゲマイネの批評家が、「終わりのみはトリスタンと似すぎている」と度々質問してくるので、私はピンと来ず、最終公演で見てもよく判らなかったが、帰国後、演出記録用のDVDを見て初めて彼の発言を理解した。浄人は「私も同罪、一緒に死ぬ」と歌った後で、柳玲が飲んだ毒薬を実際に飲んでいるのだ。反乱軍の蜂起で他の参会者が散った静寂の空間で、二人がデュエットの最終部分をリピートするのは、愛の歌が長すぎて散漫になるのを防ぐための私の工夫だったが、今回の演出では、愛の媚薬を飲みあった彼岸の恋人達にまで進めていたわけだ。寂聴さんの台本でも柳玲は死ぬし、私の最後のト書きでも、デュエットを歌いあった後、柳玲は浄人の腕に倒れこむことになっているが、心中は想定していなかった。
それにしても楊静の存在感は抜群だった。初日を見たレーゼさんの報告には「楊静さんはスターでした、いつものように」とあったが、二幕に柳玲が弾き、浄人が笛で合わせるデュエット《出会い》で登場して聴衆を魅了し、柳玲のアリア《私の心》のバックのオケとの絶妙な絡み、二幕終わりの二人の二重アリアから隆祥が大和の悲惨な状況を告げるあたりの協奏曲風なタペストリーを紡ぎだす見事さ、そして三幕の琵琶秘曲《愛怨》の神秘的で圧倒的な芸術感覚と技術、フィナーレで激しいカタルシスをリードするに至って、ヨーロッパのどのオペラにもかつて現れなかった器楽奏者の超絶した役割の現実化を見て、作曲した本人も言いようのない満足感を今回も! 100%覚えた。本来このオペラは、《春琴抄》における筝同様、日本に仏教と共に吹き寄せてきた唐の文化を象徴する琵琶によって時代精神を表現する目的で書いたので、ハイデルベルク大学音楽学教授のDorotheaが「琵琶がこのオペラを代表する強烈な残像」と述懐したことは当然の正解である。
こういうスーパープレイがないと、いくら平均点の高い優秀なキャストや、総じてレヴェルの高いオケがいても、また緊急の予算縮小を口実にしても、衣裳を過去に上演したオペラからの寄せ集めで済ますといった便法を、聴衆が納得すまい。楊静には、いつか《愛怨》が豪華な長安の王宮や豊かな日中の王朝文化をバックにした欧米の大劇場で、ヴィジュアルな面でも華々しく上演される可能性を確かに繋いでくれたと感謝している。
しかし私にとって最後になるかもしれない欧米旅行を、こういった完全なチケット売り切れ、高い新聞評をもたらした《愛怨》ヨーロッパ(ドイツ)初演という機会で無事飾らせてくれた上記すべての方々に、もう一度心からの感謝で捧げます。ありがとう!!!