八ヶ岳「北杜国際音楽祭」2010を終えて


芸術監督の回顧 2010年8月19日 三木 稔

早いもので第5回を迎えた八ヶ岳「北杜国際音楽祭」2010が無事終了した。開幕当初、昼間はこの1000メートルの高原も暑いくらいだったが、コンサート中は涼しく、メインコンサートが続いた中間時点では極めて快適な気候で、東京から来た連中はうらやましかっただろう。最終日の公演前後に雨に見舞われたが、近年では最も恵まれた気候で、クラシックの野外公演が無かったのがひどく惜しむ人が多かった。

今年は、開催宣言に書いたように、世界を覆う経済危機下に民間の力を糾合しても、目標として始めた「東西音楽交流の聖地創り」を追求できる資金は得られず、NPOによる事務局体制すら危なく、開催が危ぶまれていた。4月になって芸術文化振興基金から、事業仕分けなど世間の趨勢とは逆に、世界に稀なテーマと、地域の人たちとの密な協力を期待したサポートを得られることになって、急遽音楽祭開催を決めたので、準備の遅れが毎年の熱気を殺いだのではないかという声が多かった。
私自身、2月から6月にハイデルベルク劇場のシーズン自主企画で8回も上演されたオペラ《愛怨》ドイツ初演最終日への参加、その前にドイツ最古の由緒あるハイデルベルク大学から求められて行った「三木稔、日本史オペラ9連作」の3時間に及ぶドイツ語でのレクチャーのための準備や、帰国後に第9作《幸せのパゴダ》の最終工程オーケストレーション脱稿で、37年に及んだ、国際的に空前絶後のオペラ連作の完成という大仕事を抱えていたため、今年の音楽祭のアウトラインは昨秋から決めてはいたものの、現実的には公演決定の遅れは老芸術監督には大変だった。HIMF創始以来、他に例の無い演奏作品の決定と新作の準備、中心メンバーの出演交渉は、主として私との信頼関係で少ない報酬や選曲をOKしてもらったりしてきたので、実行が明確にならないと確定させられない。遅れると彼らもいい仕事を先に決めてしまう。そのためスケジュール面で出演不能者が続出し、理想を追求できなかった恨みが激しく残る。
また例年のことだが、せっかく作ったチラシやポスターの有効な使用がまったくできていないという指摘が、北杜の住人からもコンサートに遠くから来てくれた人たちからも、例年同様、今年も私の耳には痛く空しく響き渡り、夢にまで見る地域の人たちとの現実的で未来を志向した確固たる運営組織の発足も、ずるずると課題として残った。

そんな中で、榊原総合プロデューサーが東京と北杜間をたびたび往復し、真摯な活躍をしてくれたこと、依然特別協賛者であることに変わりない(株)アルソア本社のNPO「八ヶ岳自然村」スタッフが、本業の間を縫い、夏休みを返上して彼らの信じる事務局活動を推進してくださったことに深く感謝をささげたい。

昨年は大手術のあと、開幕2日前に退院して、かろうじて臨場できたため、出演者・スタッフにも、ご来場の聴衆の方々にもご心配をかけたが、今年は皆さんから「元気で何より」との声をかけられて、まあまあ良かった。
昨年は準備時期に何度もの手術で、基本企画をしながら任せっぱなしになった責任上、臨場したコンサートについて本来は公的な評論家に求めたい指摘や反省をHP上で自ら行うという作業を行ったが、今年も主催6公演について、良かった点と反省点を指摘して先に続けたい。なお協賛・協力した公演は、「北杜国際音楽祭」の主催公演が、企画の遅れのために予定していた会場を得られなかったケースや、それぞれの公演の主催者の熱意に感じて広報で便宜を図り、一方この地域に長期滞在する音楽ファンに鑑賞の空き日を作らないために協賛・協力したもので、必ずしも「北杜国際音楽祭」の主目的に沿ったものではないケースもあった。9日間という長期公演は昨年以来の資金的・人材的な開催可能限度をはるかに超えている。したがって日本経済の早急な回復を願うと同時に、定住人口の極端に少ないこの地域から、音楽文化への高度な欲求が一日も早く生まれ育ち、音楽祭を制作することへの活発な討論や実行力が湧き出して、我々の「共生・共楽」への願いとがっちりとかみ合い、「東西文化交流の聖地創り」の夢が、少しでも現実に見られる日々の来ることを祈りたい。

■ 初日(8月1日)の管打楽器の饗宴は、昨年12月に日本管打楽器協会から頼まれて最終審査に参加した私が、その年のコンクール対象の4つの楽器優勝者のレヴェルの高さにヒントを得て、即座に音楽祭への招待を決定して受賞者たちに通告したもので、コンクール主催者からも大いに喜ばれた。必ずしも「東西音楽交流」の目的に沿ったものではないが、この地域の人たちに、単なるエンターテインメントだけでなく各楽器の技術のトップレヴェルを知ってもらうことは意義深いことと考えた。フルート:竹山愛、トロンボーン:玉木優、マリンバ:岩見玲奈、ユーフォニアム:鎌田裕子それぞれが技術の粋を尽くして演奏した。
私の個人的な趣味では、フルートの現代奏法で竹山が披露した福井とも子作曲の“A Color Song on B”の見事な構成力が興味深かった。しかしオープニング公演で、アルソア本社の森羅ホールというホームグラウンドでのコンサートにもかかわらず入りは30%ほど。小淵沢周辺の別荘地には、この時期たくさん音楽家たちも来ているはずなのだが、長年の惰性か、この土地にこういうコンサートを定着させるには、よほどの年数と努力が必要なのだと思い知らされた。ヨーロッパでなら多くの陽気な聴衆で賑わっただろう。

■ 主催公演2日目(8月3日)の斎藤一也ピアノ・リサイタルは聴衆が入らないことで我々を悩ませている長坂コミュニティ・ホールだったが、ほぼ満員のお客さんたちが熱心に聴いた。彼のロン=ティボー国際音楽コンクール等での赫々たる入賞歴やその若さもさることながら、地元といってもいい韮崎市出身で、母親たちの熱心な集客活動が実ったもので、近所にこのような人材がごろごろいるわけではなく、地域との連携の模範ではあっても、特別なケースと心得ておかねばなるまい。斎藤君本人はまことに好青年で、この実績にももったいぶることなく、前半シューマンと後半ショパンをまこと切れよく弾き続けた。指もペダリングも適切であった。長坂のホールの長所を生かした感性のよさも感じた。蛇足だが、私はショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」を生まれて初めて聴いた。中田喜直さんの「雪の降る町を」がそっくりで盗作とまでいう人がいる噂の作品である。もちろん生まれた年はショパンが先だが、中田さんの歌曲は立派なオリジナルである。かの「雪の降る町を」は詩を最大限に生かし、日本語の抑揚に自然で、そっくりとはとんでもない誹謗であることを確認できて、ショパンの曲のよさと同時に私はとても嬉しかった。

■ 次の日(8月4日)も地元音楽家の日であった。森田プロデューサーは外遊で忙しい中を立派に組織した。入りは残念ながら半分くらいだったが、このホールはJR長坂駅に接し、地の利は決して悪くはないのだが、この地域自体、恐ろしく有史以来音楽などにまったく縁の無い場所だったのであろう。音楽祭1年目から、集客には悪戦苦闘でちっとも進歩が無く、いいホールだけに残念なことだ。私のかねてからの持論だが、NPO事務局のある隣の小淵沢とはあまり関連の無かった長坂地域の有志が、直接音楽祭の実行委員会に加わって、自分たちの町の将来と音楽祭を生活の中で考える新体制を作らない限り、変化も進歩も無いと思われる。市の指導力にも期待したい。ついでに、ここは1階が図書館で、ホールの廊下でのちょっとした会話も読書の妨げとなる珍妙な設計である。入場者の気遣いはもちろん、出演者たちは自分の声や楽器の調整に四苦八苦である。ちょっとした遮音壁の設置で回避できるのだから、これも共催の市に早速期待したい。
コンサートの中身は、それでも期待通り長坂地域の特色をよく出していた。菅野芽生・飯島諒・伊東美紀のフルート・トリオはとても清々しい音色をキープし、低音部が他の楽器とのアンサンブルの中で、埋もれがちなフルート族の弱点が見られず、私にもいい教訓となった。終わりにピアノ小林範子が加わり、テレマンのターフェルムジークからquartetという、「東西音楽交流」を主とするこの音楽祭では上演機会が多くないジャンルをカバーしてくれたのは嬉しいことだった。
2年前まで清里でヴォランティア活動をしていたアメリカ出身のKasiaが、その後タンザニアでボランティアを続けているが、この8月日本に来てこの音楽祭に出てくれ、pizz.とarcoの交互する「ジュディーオフ」のほかに、外遊からの帰国が間に合った森田基子プロデューサーとピアノとのduetで、聴衆にサンサーンスの「白鳥」を演奏し、サービス精神旺盛なところを見せた。音楽祭らしいほほえましい光景であった。
リーダーの西尾富美代以下、中込育子・長沢れい子の女声トリオRegaloはドイツロマン派の声楽曲を得意とするようだが、本来ソプラノの3人が交互にduet とtrioで声部の交換をしつつ、私にとっては旧制高校の学生時代を懐かしむブラームスとシューマンの8曲を美声で届けてくれた。ハイデルベルク劇場の《愛怨》で、ドイツ人歌手たちの日本語に感心してきたばかりの私の耳に、日本人歌手たちのドイツ語というクラシック界のスタンダードがくすぐったかったが、彼らも「日本の歌メドレー」というサービスを忘れなかった。
Regaloの最終ステージは、私が昨年半ば病床で書いて「エコオペラ」と称している1時間の小オペラ《きみを呼ぶ声》の、6つのシーンの冒頭で歌われる女声合唱を組曲にした《岬・道行》から《砂丘にて》と《銀河へ続く》の2曲で締めた。西尾さんは長坂の女声合唱団「フォンティーヌ」の指揮者でもあり、2年後には《きみを呼ぶ声》に挑戦するのだと張り切っているそうだ。この音楽祭でオペラを上演することは考えられなかったが、この深刻な不況を逆手に取る私のエコオペラという考え方が、日本の方々で本質的な意味でのオペラファンやオペラにトライするグループを生みつつあるのが頼もしい。

■1日置いて、いよいよ音楽祭の主要演目が始まった8月6日は、いうまでも無くヒロシマの日である。1960年頃、ひたすら声を出したくてアマチュアの資格で参加していた男声合唱団リーダーターフェル1925は日本最初の男声合唱団でもあり、63年に私の合唱での出世作で42分を要する《レクイエム》を書くチャンスを与えてくれた団体でもある。その団員で60歳を超えたメンバーが参加資格を持つ男声合唱団リーダーターフェル ジルヴァーナー1995から、東西レクイエム(西のケルビー二から“Graduale”と“Sanctus”、東の三木稔“レクイエム抄”)合わせて14分ほどでいいから、ぜひ北杜国際音楽祭に参加させて欲しいと昨年から打診されていた私は、聴衆に黙祷こそ強要しなかったが、短縮版とはいえ東西レクイエムを歌う彼らに登場を願うとすればこの機会が一番相応しい、と考えた。続けて2曲を聴いてみると、声自体は渋くなっても明白に音楽性が向上している彼らの場合、合唱祭などと違った音楽祭では、もう少し作品の効果が継続する時間を上げてもよかった、と反省した。しかし、ギャラはもちろん、交通費・宿賃まで自前で参加して、この日の意味を深めてくれた彼らと、指揮者岩佐義彦の進境に心からの感謝と拍手をささげたい。
次の演目、歌楽=モノオペラ《ベロ出しチョンマ》は,今年の音楽祭で最もプロフェッショナルな演唱演奏であったと言って過言ではなかろう。すでに500回もこの作品を謡い語っていて、演奏人生をこの曲に賭けているというバリトンの境信博と、新箏最高のソリストである木村玲子の願っても無いduetは、まだ2度目のチャンスだったそうだが、25分のモノオペラ的上演の間、会場は静まり返った。来場した人たちの何人から、この悲しみの極致のような作品の、練りに練られた演奏に出会えたことを感謝されたことだろう。拍手に混じって、一声だけだったが飛んだ掛け声は、予定調和に無い真実味に溢れていた。

後半の中国楽器特選コーナーは、予定していた二胡奏者とスケジュールが合わず、急遽上海音楽学院から推薦された陳春園さんの短い「悲歌」から始まった。山田耕筰のような存在の劉天華にこういうタイプの曲があったとは驚いた。
実は6月に世界3大瀑布の墨絵への即興演奏での感動から、シズカ楊静が作品化してきた琵琶ソロ《空山飛瀑》には一番期待していただけに失望した。作品化するというので、様々なものを加え、2ヶ月前の1本の太い筆致で描ききった豪快な即興演奏の感動が全て消えてしまっていたからだ。この日の打ち上げで私は一番にその印象を話し、再作曲を促した。これ以外の二人のduetや、大三弦の費賢蓉が加わってのtrioは上海、河南省、内蒙古等の著名な民間の18番音楽でまことに手馴れて楽しく、邦楽との違いが歴然で「共楽」の極致だった。シズカの曲で「一音、両地」と名づけられたtrioで大三弦の2の弦が切れたのはご愛嬌! 最終ステージはシズカが2年前の銀座王子ホールで初演した琵琶と男声合唱の「隠された月の顔」からの2曲の再演。結メイルクワイアー(東京リーダーターフェル有志13人)をバックに、琵琶のソロが続く。《山水》は英語で、《李白》は中国語で歌う。実はこの作品は5楽章からなる大きな作品だが、その残りには着手できなかったとはいえ、よく合唱メンバーが参加し、厳しい岩佐義彦の練習に耐えて歌ってくれた。機会があったらまた音楽祭にご参加願いたい。情けなかったのは、合唱メンバーとその家族がバスを仕立てて朝東京を出発、アマチュア芸とは言え熱心な出演をしてくれたのに、彼らと私の知り合い等を含めて70人前後の聴衆を除いて勘定した長坂の聴衆は、金曜夜という最高のシチュエーション下でも30人程度という惨めさ。JRの駅舎に接した立派なホールを持ったこの地域の問題とは別の音楽祭組織の大欠陥としか言いようが無い。私は会場でオープンに数え、出演者たちに謝り、音楽祭継続の意義があるかどうか紙一重の問題だと公言し、何とか来年続ける一縷の希望があるのかな、と聴衆に話したら大きな拍手が来た。この場所を選んだ創立者の私の反省はもちろん、集客組織へのNPO事務局の大英断をお願いしたい。繰り返すが、地域の人たちが自分の文化の問題として責任を感じるように若い実行委員を北杜市各地域から探し出し、一夜対策でなく、通年してコンサートのあり方を討議しあう体制ができない限り、例えば、他所者感が拭ききれない者が町の実力者にポスターを張ってくださいと渡しても、1年物置の隅に転がっているというのが日本のどの地域にも共通する長年の風習なのである。この最高級の《ベロ出しチョンマ》の感動を、ホールの目の前に住む人たちと、なんとしても分かち合いたかったのだが……。

■8月7日(土)16時は、人集めには更に恵まれた時刻で、場所もNPOお膝もとの小淵沢道の駅真ん前のアルソア本社の森羅ホールに戻った。音響条件は長坂コミュニティホールには及ばず、エアコン操作にも面倒な配慮が必要だが、土曜日、音楽祭人気の「アジア音楽紀行」の4回目である。出演は、2002年に私が「アジアで、最も楽器が改良整備され、かつそれぞれの楽器の第一人者ばかりの」ソリストたちの多民族・多国家アンサンブルとして創立した「アジア アンサンブル」が中心である。日本から尺八:坂田誠山と新箏:木村玲子、中国から琵琶:楊静と大三弦:費賢蓉、モンゴル国(外モンゴル)の馬頭琴:A.バトエルデネの精鋭5人が創立メンバーだが、私はずっと韓国の杖鼓:イ・チュ・ヒに打楽器代表として加わって欲しかった。彼女はソリストとしても素晴らしいし、アンサンブルも安心して任せられる。しかし近年舞踊の方に専念しているとの情報があり、連絡が着かずにいた。1昨年5面太鼓ソロとして参加して以来、メールでの連絡がつくようになり、今年から正式メンバーとして加わってもらった。今回は創立時に初演して定着しているレパートリーに加え、山梨県民謡「縁故節」のメロディーやJazzの響きも聞こえる福嶋頼秀作曲《夏の調べ、北杜から》と、宮城道雄氏による尺八と箏の二重奏曲「泉」から着想したというマーティー・リーガン《ウォーターフォール》、そして毎回常識的でなく不思議なアンサンブル効果を持つ作品を書いてきた楊静に《牡丹Pfingstrose》の新作を委嘱し、おのおのが「東アジア 心の源泉」に根ざした曲を書いてきた。少ない練習時間を最大限効果的に按配して、それぞれの効果を挙げた二人の指揮者:榊原徹、マーティー・リーガンの努力を多としたい。私自身は、抱えていた大きな作品のため、ここ2年音楽祭に新作を提供できず、アジア アンサンブル創立の時に書いた《Origin》第3部と、優秀なソリストたちの即興能力を開発するために書いた《わ》の後半のアジア版とも言うべき《ワッWa》を冒頭とトリに使った。尚チラシで予告していた尺八:坂田誠山がよんどころない事情で間際に出演できなくなり、尺八ソロをカットし、アンサンブルに加藤秀和の出演を願った。もちろん20世紀には無かったアンサンブル作品と各楽器、各奏者自薦のソロを交互に配置するプログラミングが少し不規則になったが、世界で我々にしかできない2時間半の興味に満ちたコンサートだったはずである。冒頭に述べた今年の準備不足が障害となって、丁々発止の気迫が一部でも欠けていたとするならば、以後毎年続けるはずのこの「シリーズ アジア音楽紀行」の次回で、120%の答礼を図りたい。
私は、数十年に亘ってこの音楽祭の機会に毎年委嘱初演作を増やし続け、アジア アンサンブル演奏による東西と南北の「シルクロード大壁画」とでもいうか、壮大な「アジア交響絵巻」を完成させる夢を持っている。作曲者にはその大絵巻の重要な部分に永遠に自分の名が刻まれる栄誉を念頭に、今後も創作に励んでもらいたい。

■毎年長坂でのコンサートが休館日のため使えない月曜日に開催している森羅ホールでのワークショップ:「三木稔、日本史オペラ9連作」紹介シリーズ第3回は、8月9日16:00から08年の《愛怨》、09年の《源氏物語》についで《じょうるり》を取り上げさせていただいた。今年は、《愛怨》ドイツ初演や、「三木稔、日本史オペラ9連作」の最終的完成という大きな節目のときであったので、それらの報告も含めて長丁場となったが、3月に80歳となった私には、自分の37年を賭けた大ライフワークを自分の口から紹介できる、まことに得がたい機会であった。たまたま6月2日にはドイツ最古のハイデルベルク大学で、音楽学部・日本学部・中国学部共催で行われた3時間に亘るレクチャーを日本語とドイツ語を交えて行ってきた後なので、主要場面を紹介するDVD編集方法が、あわせて1時間強と2時間ほどの2種類ができていて、今回の《じょうるり》の紹介は、その長いほうの当該オペラ部分20数分をそっくり見せてちょうどうまく収まったと思う。
《じょうるり》というオペラは、3人の主役同士が真に愛し合っていて悩み、最後は老太夫が昔書いた浄瑠璃台本の筋書きに沿って、若い恋人たちを血を見ない滝という心中の地に送り出し、その道行を謡い語る太夫と、人形でなく、恋人たる歌手2人の素の演唱の奥深いtrioで聞かせるまことにピュアーなオペラで、全篇歌に満ちるこの時代では信じられない奇跡的作品と言われ、25年前の初演当時には私の最高傑作と言う人が多かった。
このワークショップ・シリーズは毎年来場される熱心な方々もいて、5年間の一区切りを「三木稔、日本史オペラ9連作」完成の報告で締めさせていただけたことを、サポートする皆さんへの心からの感謝で代えさせていただく。

★実際、事務局・出演者・スタッフそれぞれに半分はヴォランティア精神でこの音楽祭持続のために全力を挙げて奉仕してきた。協賛の各社や基金、そして北杜市に最大限の感謝をしてこの5年を総括しないと、このような報告は成り立たない。今後の希望は、他の音楽祭の予算規模に少しでも近づく努力と、この地域の過去の習性を越えた若いパワーが、ここから世界に正対し、いかに自分たちの文化を育てていくために、その無限の力を発揮してくれるか否かにかかっている。


三木 稔