作曲年◆1975年
原作◆谷崎潤一郎、台本◆まえだ純
時と場所◆19世紀、大阪
関連する当時の代表的芸能◆地歌・筝曲
ストーリー◆
美貌ながら盲目の筝曲師匠春琴の厳しい稽古に、多くの弟子たちは音を上げるが、身の回りの世話をする佐助は耐えて地歌修行に励む。サディスティックなまでの春琴の佐助への折檻とはうらはらに、春琴の懐妊が判るが、二人とも誰が父親か明かさず、結婚させようとした両親に、春琴は一生独身を主張する。春の一日、賑やかで陽気な梅見の宴で春琴を誘おうとした分限者の利太郎は体よく断られる。懲りない利太郎は、佐助と官能的な生活を営む春琴を訪れて三味線の稽古を受けるが、いじめられ、あげくは撥で眉間を傷つけられる。利太郎はある月夜、就寝中の春琴を襲い、顔面に熱湯を掛けて逃げ去る。失意の底の春琴を見て、佐助は自らの両眼を縫針で刺し、二人は共に盲人となって至高の愛の境地に達する。
登場人物◆春琴(Sop)、佐助(Bar)、利太郎(Ten)、安左衛門(Bas)、しげ女(M-Sop)、他15名、女声合唱
楽器編成◆オーケストラ(2.1.1.1-2.2.2.0-3Perc - Str) と新箏(21絃)・十三絃筝・地歌三味線
音楽総時間◆2時間5分
アリアなど◆春琴《たとえ若くとも》、春琴+佐助《愛の二重唱》、春琴《新肌に》、戯歌《狸節》、春琴《あわれ我、男と生れて》、佐助《まことに喬木は》、佐助+春琴《お師匠様、わしの眼は見えなくなりました》、女声合唱《春鴬囀》、序曲と春鴬囀(声楽部分を除く)を併せ、カデンツァを加えて《筝協奏曲第二番》
委嘱初演者◆日本オペラ協会(総監督◆大賀寛)
初演◆1975年、東京郵便貯金会館
春琴:砂原美智子、佐助:原田茂生 ほか
指揮:山田一男、筝・三絃:野坂恵子、新星日響
演出:観世秀夫、装置:妹尾河童、照明:石井尚郎
作曲はジローオペラ賞受賞。
出版◆全音楽譜(ボーカルスコア)(オケパート レンタル)
海外初演◆1990年サボンリンナ・オペラ祭にて二期会・東京都響が3回上演(日本語)
上演回数◆13次27ステージ(2005年まで)
作曲者ノート◆私にとって最初となったオペラ《春琴抄》を書き始めた理由はいくつかある。先ず、1964年の「日本音楽集団」創立以来、邦楽器現代化の運動に集中し、69年には二十絃筝(現呼称「新箏」=21絃)創造に関与、谷崎潤一郎原作の《春琴抄》に出てくる楽器や音楽に親近感を持っていたこと。二つ目に、私の生れ育った徳島弁に近い関西弁で書けるということ。それにこの小説は旧知の名作であり、自分のやり方で究極の愛の姿を描いてやろうという野心をも強く刺激されたことも挙げる必要があろうか。
しかし初めてのオペラ創作であったため、作曲のペース配分がよく判らず、理想とする音楽を書くために執拗に台本の直しをお願いしたり、楽器の編成策定に時間を要したり、進行中の他の作曲に関わりすぎて実際に書き出したのが初演の年の5月の連休明けで、秋口にヨーロッパを1ヶ月も演奏旅行中、毎日重いフルスコア書きをしたなどという、45歳で体験した恐ろしいエピソードは山ほどある。最後の『春鴬転』はGPにやっと間にあった。
最終日が国労のスト権ストにかち合ったオペラ《春琴抄》の初演は、山田一男指揮・観世秀夫演出で、砂原美智子さんがタイトルロールを歌って、幸い極めてフレッシュな成功を遂げた。当時存亡の岐路に立っていた日本オペラ協会は、確かな明るい未来を持ち得たと総監督の大賀寛氏は述懐している。それを受けて、各地で度々の上演が行われ、中には90年の二期会によるサボンリンナ・オペラフェスティバルでの30近い批評が全て強烈にポジティヴだった画期的な成功もあり、日本オペラの一つの典型として定着してくれている。
私自身も、作曲がジローオペラ賞を受賞して安堵したが、作曲家のオリジナリティーの重要性を示唆して、その後もオペラを書き続ける情熱をもたらしてくれたのは、初演のNHK録音を聞いた文芸評論家の故篠田一士氏が「音楽芸術」誌に書いた『新たな戦慄―三木稔』と題する長文のエッセイであった。「ぼくがオペラ《春琴抄》を聞いて、感動の予感を終始おぼえつづけることができたのは、ほかならぬ、原作の不自然な浅はかさがまったくなく、実にのびのびと人の心が悲しみ、よろこび、そして苦しみ、すなわち、そこには、おしなべて暗鬱な色調に彩られているにせよ、ひろやかな内的世界がくりひろげられていたからである」
結果としてだが、《春琴抄》という第一作が、幕末前後の題材を扱い、しかも地歌・筝曲という日本の代表的芸能を取り込んだ原作によったことが、私の以後の連作の運命を決める重要な要因となった。初演直後、邦楽器を加えることは邪道だという指摘が高名な作曲家たちからあったが、私は、民族楽器の高度なソロが、オケピットのオーケストラと協奏曲のような機能でドラマを深め、刺激し、かつ和ませるという独特の様式を、この第一作以降も変えることはなかった。
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