三木稔の日本史連作オペラとフォークオペラ余話

これは著書「オペラ《源氏物語》ができるまで」に収録するつもりで書いた三木オペラ余話。分量の関係で外し、著書には極めて簡単な「序に代えて」を載せた。ここで公開する。

目次

春琴抄
  あだ
    じょうるり
      フォークオペラ劇場「歌座」
        ワカヒメ
          静と義経
            照手と小栗
              源氏物語の発端
            組オペラ《隅田川/くさびら》委嘱
          オペラの合間、または重なって
        源氏物語の経過
      悲歌劇《隅田川》
    喜歌劇《くさびら》
  オペラ《源氏物語》台本の完成
音楽随想執筆受諾


春琴抄
 最初のオペラ《春琴抄》を作曲した時、私はすでに45才に達していた。
 音楽劇への興味はずっと持ちつづけていて、先天的なもののようだが、知識や経験は貧しいものだった。それまでに私が劇場で見たオペラは、せいぜい5つくらいだったろう。部分的な音楽の面白さは別として、私はオペラを、極めて退屈なものとしか認識していなかったことを告白せねばならない。その理由の一つは、19世紀までの西洋オペラのバックグラウンドが、あまりに日本社会と違いすぎることにあった。これで日本の大衆を巻き込むのは無理と思えたのだ。
 そういう私が日本オペラ協会からのオペラ《春琴抄》作曲委嘱を受け入れた理由はいくつかある。先ず、1964年の「日本音楽集団」創立以来、邦楽器現代化の運動に集中し、69年には二十絃筝創造に関与、谷崎潤一郎原作の《春琴抄》に出てくる楽器や音楽に親近感を持っていたこと。二つ目に、私の生れ育った徳島弁に近い関西弁で書けるということ。それにこの小説は旧知の名作であり、自分のやり方で究極の愛の姿を描いてやろうという野心をも強く刺激されたことも挙げる必要があろう。
 初めてのオペラ創作であり、創作中にも、初演はじめ上演の度にもさまざまなエピソードはあるが、ここには触れない。 
 1975年11月24日を初日とするオペラ《春琴抄》の初演は、東京郵便貯金会館で、山田一男指揮・観世秀夫演出により行われ、砂原美智子さんがタイトルロールを歌って、幸い極めてフレッシュな成功を遂げた。存亡の岐路に立っていた日本オペラ協会は、確かな明るい未来を持ち得たと総監督の大賀寛氏は述懐している。それを受けて、各地で度々の上演が行われ、中には90年の二期会によるサボンリンナ・オペラフェスティバルでの画期的な成功もあり、日本オペラの一つの典型として定着してくれている。
 結果としてだが、《春琴抄》という第一作が、幕末前後の題材を扱い、しかも地歌・筝曲という日本の代表的芸能を取り込んだ原作によったことが、私の以後の運命を決める重要なファクターとなった。民族楽器の高度なソロが、オケピットのオーケストラと協奏曲のような機能でドラマを深め、刺激し、かつ和ませる独特の様式も、この第一作から定着した。初演の筝・三絃のソロは主として野坂恵子、従の立場で吉村七重が担当した。
【後注】私は、19世紀の《春琴抄》を出発点として千数百年の日本史のながれを遡り、それぞれの時代に生まれた芸能が、劇や音楽に関わるオペラ連作をライフワークの一つとする作曲家の道を歩んで、25年で7つの大作を完成させ、あと一作で日本史をほぼ通関するところまで来た。

あだ
 《春琴抄》のオペラ化を、台本のまえだ純氏から打診されたのは72年12月。その10日後に、イギリスから一通の手紙が来た。第二次大戦後、ベンジャミン・ブリトゥンが創設したイングリッシュ・オペラ・グループの演出家コリン・グレアムからで、新しいオペラを一緒にやろうというものであった。グレアムは、体調を崩したブリトゥンからグループの全権を受け、後イングリッシュ・ミュージック・シアターと改める。  
 私の受諾後しばらくして、題材に当時ロンドンで上映されていた市川昆監督の『雪之丞変化』を使おうということになった。《春琴抄》から百年を遡り、18世紀、歌舞伎に関わる題材であるが、私は、仇・婀娜・徒・空の意味を合わせた「あだ」を作曲のポリシーとした。
 オペラ《あだ》(英語タイトルAn Actor's Revenge)は、日本通の著名な詩人ジェームス・カーカップの英語台本に作曲し、79年にロンドンのオールドヴィック劇場で世界初演された。スチュアート・ベッドフォード指揮、コリン・グレアム演出。主役の雪之丞は、筝(野坂恵子)・三味線(今藤早苗)と並ぶ語り席で歌うケネス・ボーエンと、踊り演じるステファン・ジェフリーズの二人一役が効果を挙げた(小鼓ほか打楽器で参加の高橋明邦はオケ・ピットで)。
 ロンドンでは、ウエーバー作曲《オベロン》以来、英オペラ界が153年振りに外国人に委嘱したオペラとして話題を呼んだ。作品もブリトゥンのオペラ並みの成功、と社長のドナルド・ミッチェル氏を感動させたフェイバー・ミュージック社は、ドイツ語版・日本語版も合わせて出版し、米独日で何度も上演され、今も企画に挙がることが多い作品となった。

じょうるり
 《あだ》のロンドンでの稽古中、グレアムに「稔のようなオペラ向きの作曲家が、なんで今までオペラを書いてこなかったのだ。次のオペラは何の予定か?」と聞かれた時、近世(江戸時代)の代表的芸能を取り込める三部作を考え始めていた私は、咄嗟に17世紀の人形浄瑠璃世界が題材だと答えた。81年、グレアム演出・三木指揮で成功した《あだ》の米初演後、セントルイス・オペラ劇場のリチャード・ガッデスはその第10シーズンのために、私たち二人に次作を委嘱してくれた。
 浄瑠璃という日本近世を代表する文学史上、外国人キリスト教徒が書いたのは初めてと思われるコリン・グレアム台本に、すでに東西の意識を超えていた私の音楽が自在に流れる第三のオペラ《じょうるり》(英語でもJoruri)は85年完成、同年5月ジョセフ・レシーニョ指揮、グレアム演出で世界初演され、太夫を演じたアンドリュー・ウエンチェルのバス・バリトン、その若い妻フェイス・エシャムと人形使いジョン・ブランドステッターの三角関係が強烈な印象を残した。オーケストラとのトリプル・コンチェルトの役割を果たした尺八・坂田誠山、二十絃筝・吉村七重、太棹三味線・田中悠美子たちへの注目、演奏した三人の充足度も極めて高かった。
 これで一つの目標だった私の『オペラ近世三部作』が完結したことになる。
 88年、日生劇場の招待でセントルイス・オペラ劇場によって行われた《じょうるり》の日本初演は、日本のオペラ関係者のみならず、多くの識者にカルチャーショックのようなものを残したが、同時進行で書いた日本語版は、多くの人たちに望まれながら未だに初演されていない。

フォークオペラ劇場「歌座」
 このように、膨大な経費がかかるが故に自分の意志で上演を左右できないスタンダードなオペラとは別に、私は、より機動性・民俗性を持ったオペラ運動を夢見ていた。たまたま83年に芸団協委嘱で作ったザ・ミュージカル《うたよみざる》を改定すれば、その典型的なレパートリーとなると信じた私は、ツアーリング・カンパニーというか、フォーク・オペラ劇場ともいうべき『歌座』を86年に主宰して創立してしまった。親類や友人たちに浄財を請うて株式会社を作り、その資本金を最初の仕込み費用に当てた。芸術上は、演出家ふじたあさや氏と、演唱の確立に生涯を捧げた故友竹正則氏の協力を得ながらキャストを公募訓練し、《よみがえる》《オロチ伝》《牝鶏亭主》《のはらのファンタジー》など、次ぎ次に演目を創造していった。《ベロ出しチョンマ》《鶴》など私が『歌楽』と称するモノオペラも歌座のみならず、演奏家たちに愛されて広く拡がっている。しかし大作の作曲に追われる主宰者にはどうすることもできない、主として資金面の度重なる挫折を経験し、ここ数年新作の追加や自主公演が出来ず、苦い現実を味合わされた。幸い近年いいきっかけを得て上演は活発化しつつあるが、これらに付いては、一方のオペラ連作創造の細緻な記録やエピソード、その美学と合わせ、いつか一冊の本にまとめることもあろう。

ワカヒメ
 『近世三部作』が完結した私の歴史オペラへの興味は、鎖国下の近世特有の約束事に縛られない遥か古代の題材に向かった。
日本は古代から国際国家であったという事実を、私は次なるオペラ連作で証言する意思を持ち、作品規模としても、グランドオペラを幾つか書き残すつもりであった。
 たまたま岡山にオケピットを持った大きなコンサートホールが誕生することになり、当地の旧制六高で青春時代を過ごした私が、岡山題材のオペラ創作を任された。すでに数年間に亘って古代の資料を読みふけっていた私は、日本書記に加えて岡山の史書から、5世紀・稚姫(わかひめ)の史実を発見した。雄略天皇時代の大和、そして伽耶・新羅・百済を巻き込んで起こったそのドラマは、日本のグランドオペラの題材として、これに勝るものはあるまいと感じて狂喜したほどであり、大衆を説得できる作家として、なかにし礼氏に台本を依頼し快諾を得、痛快なリブレットを得た。
 第4のオペラ《ワカヒメ》は91年秋に完成、92年1月岡山シンフォニーホール開館記念として、なかにし礼演出、指揮に新鋭の飯森範親を起用して初演された。タイトルロールを歌った宇佐美瑠璃さんは、その後も私のオペラのヒロインを好演してファンたちを喜ばしている。私のオペラで常に器楽の主役を担う邦楽器は、この五世紀には考えられず、韓国の伽耶琴(初演は原谷治美)が登場して色を添えた。次の93年NHKホールでの東京初演で、主役の一人の失態に遭わなかったら、日本の最も愛されるオペラとしての位置を築けたものをと悔やむ人が多い。でも私のオペラとして現在唯一のCDが、台本英訳がついていないにも関わらず海外で高評され、5年後の岡山での再演は国内スタッフ間の評判のプロダクションとして語り次がれていると聞くのは嬉しいことだ。

静と義経
 《ワカヒメ》の稽古中、鎌倉芸術館芸術監督に就任予定のなかにし氏から、93年秋の開館記念オペラ《静と義経》の作曲を依頼された。大きなオペラはほぼ5年に一つのペースで書いてきた私だし、まずは古代の三部作を思い描いてもいた。また、92年中に3つのオーケストラ曲を書かなければならない事情も説明して、到底間に合わないと固辞したが、どうしてもと説得され、最終的には受諾してしまった。新作は中世題材で、当時の流行歌というべき「梁塵秘抄」を取り込む部分もあり、今様や声明と関係付けられそうで、様式的には私の望む内容で申し分なかった。なかにし礼台本のグランドオペラ《静と義経》は、常に、作曲が間に合わぬのではないかとのプレッシャーと苦闘しながら、93年秋口に作曲を無事終えることが出来、なかにし演出・飯森指揮で11月の初演を成功裏に果たした。タイトルロールは静が塩田美奈子・宇佐美瑠璃、義経が錦織健で、多数の著名な歌手たちに役が与えられ、絢爛豪華なステージが現出した。邦楽器は二十絃筝・山田明美、小鼓ほか・高橋明邦が参加した。
 切り詰めた作曲期間に関わらず《静と義経》も、精緻に書き上げることができた。ここまでのオペラは、音楽時間正味2時間から2時間40分を要する。フルスコアとボーカルスコアを合わせると1千頁に近い。オペラ作曲は、知的労働として、最も肉体を酷使する分野といわねばなるまい。にもかかわらず推敲を欠くことなく、反対に独りよがりになることもなく、一般市民に愛され、再演を最も望まれたオペラが書けたことを私は一種誇りに思っているが、未だにこのオペラは再演がない。その理由が、交替した鎌倉市長が「芸術館反対」を旗印にして当選したことにあるとは、この世は何たる地獄であろうか。

照手と小栗
 実は私はこの93年内に作曲完成の約束で、もう一つの義理を抱えていた。中世の説教節からふじたあさや氏が台本を起こしたフォーク・オペラ《照手と小栗》である。名古屋市文化振興事業団の10周年記念委嘱で、オペラ歌手、役者、ダンサー多数が登場し、60の音楽ナンバーがある一晩ものの大作で、語りを生かした声楽効果、器楽的にも室内オケを3群に舞台上に配置したユニークな音楽劇と思っている。しかし翌年二月初めの初演のためには、ぎりぎりの大晦日に作曲を終えるという危険な仕事であった。60歳台前半のこの数年は、さまざまな経済問題もあり、体が蝕まれて当然だったかもしれない。
【後注】この豪華なフォークオペラは、2年後に名古屋での再演と東京公演が行われ、幸せな運命を辿ると期待されたが、専ら経費の関係で企画はいつも流れている。

源氏物語の発端
 《静と義経》の好評をジャパンタイムスに書いたアメリカ人ジャーナリストがいた。初演前の取材で、私の日本史に沿ったオペラ連作構想を知って、平安時代の題材に在原業平を熱心に勧め、自分で台本を書きセントルイス・オペラに持ち込みたいと言い出した。私は少し前から平安期は《源氏物語》だと考え始めていたので譲らなかった。コリン・グレアムも次の共同作業を望んでいたし、セントルイス・オペラ劇場の総監督チャールズ・マッケイも、《じょうるり》の後、私にいつでも次の委嘱をしたいといい、つい前年その具体化を催促してきていたが、古代題材は、資料の英訳がなく、私のほうの準備が大変で、延び延びになっていた。しかしこのジャーナリストのお蔭で、紫式部が書き出してほぼ千年の記念の年が近づいた《源氏物語》のオペラ化を企画する時が来たことを、私は強く意識し始めた。93年末であった。
 94年1月、件のジャーナリストが早速源氏のシノプシスを書いて来た。私の考えと相当に違う。なかなか折り合いがつかないので、グレアムに私の手紙とそのシノプシスを一緒に送ることにした。
 グレアムに私が送ったオペラ内容の骨子は、【1】男女間の人情の機微と恋の駆け引き、【2】運命・輪廻の強調と詠嘆、【3】王朝風の美しさ、【4】筋を直列的に追わず、原作の順序を無視してでも人同士を絡ませる、【5】六条の御息所の生霊(死霊)は全編通して出現し、古代のシャーマニズムが日本社会に続いていることを示す、といったもので、私なりのプロットも立て、ジャーナリスト氏のシノプシスとの比較を求めた。
 グレアムの返事は、そのシノプシスではオペラにならないと厳しく、英訳が多いから「源氏物語」は自分で台本を書くという。《あだ》《じょうるり》そして《うたよみざる》の英訳も作った20年来の親友であり、メトで《ヴェニスに死す》を演出中の大芸術家を信じるべきである。ジャーナリストには丁重に事情を説明して、セントルイス・オペラ劇場でのオペラ《源氏物語》制作構想のスタートとなった。当初は97年初演を目標とされた。

 94年10月、クルト・マズア指揮のニューヨーク・フィルハーモニック定期で、《急の曲》(英名Symphony for Two Worlds)の米初演が行われた。共演する日本音楽集団がその後米各地をツアーし、アイオワ大学で委嘱の新作《ロータス・ポエム》の初演が行われるので同道した私は、カリフォルニア大学バークレー校で自作のオペラのレクチャーをした後、ニューヨーク・フィルのリハーサルに参加した。同時期、セントルイス・オペラ劇場(以下OTSLと略す)がニューヨークで歌手のオーディションを開催中で、合間を縫ってチャールズ・マッケイ、コリン・グラハムと源氏初演への問題点を話し合った。
 芸術上の明るさとうらはらに、不幸にも当時円高が進み、最高の一ドル79円に近づいていたせいもあって、マッケイは日本からの上演資金負担を希望した。《じょうるり》を完成させた85年には、1ドルが260円だったので、委嘱料で作曲中の生活費をなんとかカバーできたが、今回はおぼつかないと判断した私は、日本の企業から日米合作オペラ《源氏物語》のスポンサーシップを必ずや得られると信じて、OTSLからの委嘱料を辞退した。それが如何にあさはかだったかは、年を追って深刻に体感したことである。
 もう一つ、私はこのオペラ《源氏物語》は、日本のファンのために英語と同時進行で完璧な日本語版を作るつもりであった。またOTSL使用の客席約千人のロレット・ヒルトン劇場での初演はスタンダード版とし、フルスコアには大劇場用のグランド・オペラ版に対応できるノウハウを当初から潜在させる方針を貫いた。日本の劇場がセントルイスと同年に日本語版・グランドオペラ版の初演をしてくれれば、前記資金問題の多くが解決できると踏んでいた。幾人かの心有る関係者が親身に協力してくれたが、これも全て夢に終わった。

組オペラ《隅田川/くさびら》委嘱
 少し話を先に進め過ぎたので、元に戻そう。アメリカから帰国した私に、別のオペラ作曲の話が待っていた。芸団協が30周年記念に制作する能・狂言題材で、能楽堂で上演する室内オペラである。能の「隅田川」と狂言「茸」が原作候補で、ふじたあさやが台本演出するという。これには迷った。源氏が97年に予定どうり初演だとすると、とても他のオペラなど書いておられない。しかし、私の日本史に沿ったオペラ構想に15世紀は必須。しかも能・狂言と関連するとは願ってもない題材ではないか。2時間以上で規模の大きなオペラばかり並ぶ私のオペラ連作の中に、あわせて2時間とかかるまい室内オペラ規模、そして悲劇と喜劇の組オペラ(Twin opera)が一つ位置するのはまさに天恵!
 アメリカでの会議で、源氏の97年初演は望み薄と感じていた私は、この委嘱を受ける賭けに出た。こちらの初演は翌年11月である。グレアムには源氏初演は、資金問題をクリアして、98年以降にしようと提案する。

オペラの合間、または重なって
 この94年は、幾つか幸せな出来事が続いた。3月、アデレード・フェスティヴァルでは私は招待作曲家として《急の曲》を含む8つの作品が上演され、オーストラリア各紙に、私についての多量のアーティクルや好評が相次いだ。4月には紫綬褒章の授章が決まり、自分の意図を遥かに超えて、6月、沢山の方々の祝福を受けるパーティーが高輪プリンスホテルで晴れがましく行われた。よんでん文化振興財団が主催して行われた、歌座の《うたよみざる》四国4県ツアーはありがたいことだった。秋のニューヨーク・フィルの《急の曲》米初演はニューヨーク・タイムズの最高のリヴューで報われ、タイムズは私のアーティクルも2ページ続きで書いてくれた。年末には次女希生子が、榊原徹と結婚することが決まった。バス・トロンボーン奏者の彼は指揮者になる道を歩んでおり、私のさまざまな仕事の協力者になってくれるだろう。

 次の95年は問題の多い年であった。元日、夜明け前に鳴った電話を不安な気持ちで取った私は、母千代の逝去を知った。11月に転んで頭を打った母は、その後入院していたが、大晦日の夜きちんと食事もして、安らかに眠ったまま逝ったというのが救いであった。親不幸を重ねた実質長男の私には沢山引っかかるものがあり、天国に向かってお詫びと感謝の祈りをつづけるしかあるまい。でも、祖母は3月31日生まれ、母も3月3日生まれで、共に1月1日に亡くなった。3月16日生まれの私も、晴れがましく、そして世間にはあまり迷惑をかけない家族の先例に倣うのもいいな、と思ったりする。
 ロンドンのメクレンブルグ・オペラが昨年来企画していた《あだ》上演が、最後の段階で資金不足で頓挫。《あだ》のヨーロッパ各地での上演計画は、87年ドイツでの初演以来度々持ち上がるのだが、東西ドイツの合併以来、いつも資金問題でつぶれている。

源氏物語の経過
 1月14日、グレアムから《源氏物語》の最初のシナリオ(シノプシス)が到着。ひどいインフルエンザの中で書き上げたというが、私のポリシーが容れられているし、スタンダード版・グランドオペラ版への配慮もされている、よかった。
 1月17日、神戸の大地震発生。西区に住む長女名生子一家の安全が気遣われたが、10時頃、名生子が公衆電話から大丈夫と知らせてきて一安心。でも東京に発生したら、30数年前に建てた我が家はひとたまりもないことが歴然で、肝を冷やす。
 1月末、マッケイから源氏初演を98年以降にするとファックスが入る。4月にはグレアムが99年に延期したいと言ってくる。自分の台本の遅れと、日本の共同制作者が決まらないことが理由であった。私はむしろホッとする。6月、OTSLのその年のシーズン中、グレアムは、自身が演出するステファン・ポールズの初演オペラの初日に劇的な入院、心臓バイパス手術をしたことを知る。この頃から私は、オペラ《源氏物語》の世界初演は2000年がいいのではと思い始めていた。紫式部が書き始めたのが1000年か1001年らしいため、その千年記念になること、それに新ミレニアムを迎えることをダブらせるためである。それは現実化し、8月2日のマッケイの覚書で、2000年のOTSL発足25周年の年と決定した。グレアムの手術は成功し、彼は極めて元気になり、8月末、シナリオ第2稿が到着。第1稿での討議と反省で、出演者の絞込みが行われ、すっきりとオペラ的になる。

悲歌劇《隅田川》
 さてオペラ第6作となる組オペラだが、芸団協が制作するオペラの音楽への予算的対処し方が、ミュージカルの音楽と同程度であることが分り、実は、私は事務局長に長文の手紙を書き、一旦辞退した。オペラの音楽とは、作品全てを左右する機能を持ち、付帯音楽のように短時日には作れないこと。そのため少なくとも作曲時間に対応する生活費分だけでも委嘱料として得られないと生きていけないことを伝えたら、さすが芸団協の事務局長、逆に感動して、そのための努力を約束して下さったといういきさつがあった。94年中のことである。
 95年2月、ふじたから《隅田川》の台本が届く。観世元雅の能台本を口語化し、贅肉を落としてある。能とブリトゥンの両傑作を超える第3の作品にせねば創作の意味のない私は、謡曲と《Curlew River》の録音を度々聞きなおし、先ず当初は絶望的な困難を感じる。そして、ここから敢えて日本のオペラにしなければならない理由を探り始める。悩ましいことがやたらあった。
 楽器は? アンサンブルの形態は? モードは? 上演様式は?
 悩みつつ、歌の断片をメモし、一旦洗練を捨てて素朴で力強い音楽の原点に戻ろうと決める。3月、たまたまあった能《隅田川》の公演を見にゆき、一旦の決心を忘れて、その完成された様式美にため息をつきながら追ううち、はっと気が付く。「僕は猿樂でいくのだ。曲舞に返るのだ」と。
 群集の念仏を追加し、その野趣が狂女の悲しさを倍化させるよう計る。行方知れぬ子を追って、京からはるばる隅田川のほとりにたどり着いた狂女が、子の死を悟り、念仏に回向する決心をするあたり、能やオペラ台本上、狂女の歌が突如客観に次元を変えるところ、敢えて合唱にその役割を廻した。狂女は私のオペラでは常に主情的でなければならない。客観性は不要と貫く。
 同じ発想をしたくなくて、今まで決して開かなかった《Curlew River》のスコアをここで初めて開けてみる。救済劇として成立させるためにこうなるのだろうが、ブリトゥンの表現はとてもくどい。私は一瞬の閃きを求め、人工的な救済劇には向わなかった。情緒がこぼれようとも、自然の成り行きの中でこそ、人は感動を体感し、真の運命を悟る。

 6月6日、オペラ《隅田川》脱稿。モスクワでの日ロ合作音楽劇《羽衣》のリハーサルに家内同道で出発。演出のふじた君は《くさびら》の台本執筆を持ち込んでおり、ドレスデンで自作児童劇の上演に立ち寄った彼の帰路、モスクワ空港で受け取る。

喜歌劇《くさびら》
 狂言の《茸》を見たとき、私はその喜劇性にあまり満足しなかった。オペラでは西田尭舞踊団の9人の女性ダンサーが茸として出演する。ならば、彼女たちは山伏にセクハラされた者たちで、その復讐の物語に仕立てよう。そう閃いた後は、楽しいアイディアが続々出てくる。いいかげんな詞を台本に追加してもらい、ごまかしの祈祷をする山伏に、合唱はおかしげなオノマトペで対抗し、《隅田川》と共通編成の舞台上の室内アンサンブル、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット(バス・クラリネット持ち替え)、二十絃筝、各種打楽器たちが、奇妙奇天烈に囃し立てる。こんな愉快な作曲作業は久しぶりであった。8月21日脱稿し、これで、日本史に沿い、能・狂言を題材にした第6のオペラとして室内組オペラ《隅田川/くさビラ》は完成を見た。
 ツインオペラの初演は11月7日、青山の銕仙会能楽研究所で行われた。ふじたあさや演出だが、指揮者なしである。練習で細かく音楽を仕上げてくれた榊原徹はこの小ぶりの能楽堂ではいる場所がない。従ってアンサンブルは大変で、コンサートマスター役の次女希生子は大奮闘したようだ。通常のホールなら音楽的には指揮者付がよほど楽に上演できる。でも小スペースのため、歌い手たちは声量を押さえつつ表現に集中でき、なかでも狂女役の宇佐美瑠璃の真迫の演唱、貫禄の渡し守とおどろおどろしい山伏を歌い分けた篠崎義昭は特筆モノであった。読売評の低俗という指摘以外、朝日・音友・音芸・音楽旬報など各紙は極めて肯定的で、「室内オペラとして愛されていくだろう作品」と書いた朝日のコラム「音楽の風景」の表現を、スタート地点で素直に頂いておく。

オペラ《源氏物語》台本の完成
 グレアムの台本第1稿は、丁度組オペラ初演当日に届いた。その前、モスクワの《羽衣》が9月に本番を迎え、私は再び妻を同道して、最終リハーサルと本番初日を見るべく参加したが、その音楽劇については著書「オペラ《源氏物語》ができるまで」中のエッセイを読んでいただきたい。極めてユニークな体験であった。
 《源氏物語》は、シナリオで粗筋検討が終わっているとはいえ、英語の細かい機微を完全に理解するには、源氏物語台本の文学的翻訳(literal translation)がどうしても必要である。充分な対価を支払って専門家に頼む予算を持たない貧しい作曲家は、このことで毎回四苦八苦してきた。幸い88年の《じょうるり》日本初演の折、沢山の聴衆を得るため考えた私の個人後援会案が、テニス仲間で銀行員の波多野和行さん、そしてアクティヴなキャリアウーマン落合良さんを中心に実現し、『結の会』と名付け、今も私の活動をサポートしてくれている。その会員の一人、常俊明子さんが当面ボランティアでこの文学的翻訳をやってくださるという。ありがたいことだ。十分な時間を差し上げてその完成を待つことにした。

 93年に立ち上げ、94年にソウル・徳島・岡山で最初の演奏会を巡演した「オーケストラアジア」は、以後毎年日中韓3国のどこかをツアーする計画であった。この95年は先ず日本国内の番だったが、プロデュース専門家たちが東京以外をオルグできない。新しい存在を世間に認知させ、かつ前進させるには、日本音楽集団時代同様、芸術監督とはいえ、自らプロデュースの腕を振るわなくてはならないと覚悟を決めた。幸い、岡山県勝山で学生時代から応援してくださっていた「御前酒」蔵元の辻弥兵衛氏に頼り、9月末の3日間、近くの落合町の協力を得て合宿・公開ゲネプロをすること、岡山シンフォニーホールにも昨年に続きコンサートを受け入れて頂くことに成功した。勿論東京は私が委員長である日本委員会が主催して東京芸術劇場で自主公演を行ったが、嬉しかったのは、震災後再開した神戸文化ホールで行った収益無視(被災者招待)のコンサート。市の方が、「震災後の神戸にオリックスとオーケストラアジアが心の支え」になったと挨拶してくれたことだ。
 この楽団を推進するため、世界中から新たな作曲を得なければならない。本来邦楽器現代化運動のため20年来の懸案であった『日本楽器法』の出版が、オーケストラアジアでの必要をきっかけに音楽の友社で行われることになり、94年秋から執筆を開始していたが、年内完成の約束のため加速する。(この仕事はデーターの裏付けや校正のため、96年半ばまで私をきつく拘束することになったが、予期した反応を遥かに上回り、2001年春現在4版を重ね、中国語版も出版、英語版もイーストマン・カレッジのユニヴァーサル・プレスで進行中という状態である。)

 組オペラ《隅田川/くさびら》初演リハーサル中の11月4日、長女名生子が二人目の孫を出産、彩香と命名される。

 12月5日、グレアムが台本第2稿を持って来日。半年前に心臓バイパス手術をしたとは考えられない元気さ、快活さに驚かされる。彼にとって源氏は極めて重要な仕事だという。400を超えるオペラ演出をし、その半分が初演もしくは新演出という世界の大ヴェテランにして、源氏は特別の入れ込みようとは嬉しい。話しついでにグレアムは「CDで聞いた《ワカヒメ》は、自分の知る無数のオペラの中で、最も美しいオペラの一つだ」と述懐した。彼に英語訳を作ってもらって欧米の劇場での上演を見たい、と思ってしまう。
 二日に亘った打ち合わせの席で、グレアムは自分の意図を細かく説明したが、私には全てリーズナブルに受け取れた。勿論、常俊さんの翻訳と照らし合わせて作曲が始まると、細かい変更はきっとせねばならなくなる。特に、原作と離れ過ぎ、日本人の常識と異なる表現は、英語版はともかく、日本語版では別のセンテンスに変えるつもりでいる。しかし、日本人ではこのような思い切った台本にはならなかったと思う。ありがとうコリン! 私は、来年はさまざまな可能性に思いをめぐらしながら、じっくり基本的な作風確立に一年を費やそうと考えている。登場人物の多い《源氏物語》であるから、私独特のIDセリーを効果的に考案することもはじめねばならない。IDセリー(Identity series)とは、各キャラクターを特徴付ける数音の固有音列。81年《急の曲Symphony for Two Worlds》という大曲を作曲した時、西を代表する4音としてバッハのBb・A・C・B(H)の音列を選び、それに対して東の日本のムードを持った4音としてD・E・Eb・Gの音列を設定、それぞれのコードまで特定して全曲の隠し味としたのが始まりだった。後にオペラの各主役を特徴付けるために有用と考え、《じょうるり》の3人の主役に使って極めて効果的な結果を得た。《ワカヒメ》では、さらに各主役の呼び名のメロディーを生かしたIDセリーに進化させた。この方法は登場人物の多い《源氏物語》では当然有効で、慎重に設定せねばならない。それは正味3時間にはなるであろう長編オペラの音楽上の骨格造りに必須であり、名を呼ばれるときのみならず、器楽の方々に隠されて変容し、サブリミナル効果のように無意識に聴衆の劇的感受性を誘導するはずである。

音楽随想執筆受諾
 郷里の徳島新聞文化部の富永正志氏から、毎月文化欄に「音楽随想」としてエッセイを書かないかと勧められた。『日本楽器法』が脱稿することでもあり、毎月のアクセントもよかろうと引き受ける。なによりも、《源氏物語》の作曲に具体的に頭が向き始め、その完成までの間、一人の作曲家として、オペラと並行してどういう仕事、どういう日常の思考をしたかを公的に記録されるのが面白く、あとで一冊の本に纏める意思を個人的に秘めながらスタートラインに立ち、マラソンコースを手をかざして眺める心境になる。
 たまたまNHKの「人間マップ」という番組で、来年のトップバッターとして紹介されることになり、サイケなセーターなど買いこんで、普段着の三木稔の話を年末に録画される。今年は神戸の震災に次いでオーム問題が起きるという暗いの年であったが、連作オペラの大きな節目に立ち、きっと何かいいことがが起きるに違いない96年を楽しみに年を越す。

【注】この後は著書「オペラ《源氏物語》ができるまで」に詳しい。

三木 稔