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【注】著書は縦書きです。ここでは都合により横書きとなっています。

 序に代えて

 最初のオペラ《春琴抄》を作曲した時、私はすでに四十五才に達していた。
 音楽劇への興味はずっと持ちつづけていて、それは先天的なもののようだが、知識や経験は貧しいものだった。それまでに私が劇場で見たオペラは、せいぜい五つくらいだったろう。部分的な音楽の面白さは別として、私はオペラを、極めて退屈なものとしか認識していなかったことを告白せねばならない。その理由の一つは、十九世紀までの西洋オペラのバックグラウンドが、あまりに日本社会と違いすぎることにあった。これで日本の一般市民を巻き込むのは無理と思えたのだ。
 私は、日本人に密接した題材によって、外国人にも新しい感動を喚起できる音楽劇の創造が、この時代、この国に生きる作曲家として自然な行為であると確信をもった。《春琴抄》、そしてほぼ同時にイギリスから委嘱され、国際語である英語で作曲した《あだ》が、それぞれ十九世紀・十八世紀の題材を扱い、しかも当時の代表的芸能に関連していたことが、「日本史に沿い、時代精神を探るオペラ連作」を書きつづける私のライフワークを決めた。もう一つのライフワークである「アジア」を象徴する民族楽器の高度なソロが、オケピットのオーケストラと協奏曲のような機能でドラマを深め、刺激し、かつ和ませる独特の様式も、この両作から定着した。
 次にアメリカから委嘱された十七世紀題材の《じょうるり》で近世三部作を完成させた私の目は古代・中世に向かった。五世紀の《ワカヒメ》、十二世紀の《静と義経》、十五世紀題材の組オペラ《隅田川》《くさびら》と進み、十・十一世紀の《源氏物語》と、予定中の八世紀題材の大作が加わると、日本史を通貫するという類の無いオペラ八連作となる。

 この書は私の出身地の徳島新聞の求めに応じ、一九九六年から二〇〇〇年にかけて毎月寄稿した音楽随想六十編をより克明に書きなおし、かつ、その期間に日本とアメリカで進行していたオペラ《源氏物語》の創作過程・初演準備状況を加筆したものである。
 一つのオペラが世に出るまでに、作曲者が何を考え、オペラと並行してどういう仕事を、どういう日常を遂行してきたかを公的に記録したことになろうか。もっとも、《源氏物語》のオペラ化は私の中で一九九三年末から始まっており、随想開始まで二年間の状況をここで簡単に説明しておく。

 《あだ》《じょうるり》に次ぐコリン・グレアム演出の第三のオペラ創作は、ずっとセントルイス・オペラ劇場から提案されていた。紫式部が執筆を始めてほぼ千年が経つ記念の年が近付き、《源氏物語》が作曲の視野に入ってきた九三年末、私は英訳が多く国際的に知られるこの原作を次ぎの協力作品にしたいとグレアムに相談を持ちかけた。オペラ化への私の方針として強調したのは

  1. 男女間の人情の機微と恋の駆け引き
  2. 運命・輪廻の強調と詠嘆
  3. 王朝風の美しさ
  4. 筋を直列的に追わず、原作の順序を無視してでも人間同士を絡ませる
  5. 六条御息所の生霊と死霊は全編を通して出現し、古代のシャーマニズムが日本社会に続いていることを示す
  6. セントルイスでのスタンダード版と並行して、グランドオペラ版を想定した作曲をする

等々であった。グレアムは早速自分で台本を書くと返事をくれた。《あだ》《じょうるり》そして《うたよみざる》の英訳も作った二十数年来の親友であり、当時メトで《ヴェニスに死す》を演出中の大芸術家に托し、一九九四年春、オペラ《源氏物語》制作は事実上スタートを切った。
 同年十月、クルト・マズア指揮のニューヨーク・フィル定期で《急の曲Symphony for Two Worlds》の米初演が行われた。私は合間を縫ってセントルイス側と会談し、豪華さが必要な《源氏物語》制作上の問題点を話し合った。当時一ドル八十円近かった環境では、作曲委嘱料を含む一部の制作費が日本で調達可能と考え、努力すると約束したことが後々重く尾を引くとは思えなかった。
 九五年前半に二度の構成案のやり取りの後、十一月七日台本第一稿がつく。十二月五日第二稿を持ってグレアム来日。私は、彼の意図に細かく納得しながら、この大演出家の並々ならぬ入れ込みように感動して言った。「ありがとうコリン! きっと素敵な音楽で応えるよ!」
 徳島新聞文化部の富永正志氏から音楽随想執筆を依頼される。執筆中の「日本楽器法」も脱稿することであり、毎月のアクセントになってよかろうと引き受ける。



三木 稔