コンサート評

三木稔作曲《レクイエム》混声版改定初演への感想集


下記は2007年5月3日、東京文化会館小ホールで行われた浅草混声合唱団定期演奏会で作曲者の指揮によって演奏された三木稔作曲《レクイエム》の新第3楽章「花の歌」追加・改定初演への聴衆・演奏者両サイドからの感想文です。私信部分をカットし、音楽上の要点のみ匿名で掲載させていただきます。最近の日本は、重要な演奏会でも公的な批評が新聞や音楽誌に載ることが殆どない異常な社会となってしまっています。ポール・バレリーがいみじくも言ったように「報道されなかったことは存在しなかったに等しい」のです。芸術家たちにとって、無視という煉獄から身を守るには、こういった強要しない自発的な感想を分け隔てなくインターネットを通して自主報道することによって、衆知を図り、真実の批評が成立することを期待するしかない時代だと考えるしかありません。皆さんへのご協力に感謝いたします。(三木稔)

■先日はおめでとうご座居ます。終演後ロビーで順番待ちをしていたのですが、面会者が三木さんを解放しそうでなかった為、お祝いも言わずに失礼しました。
改めて、あの曲は世界に誇る名曲だと思いました。モーツァルトと並べてみても、モーツァルトが真っ青という感じですね。ソプラノのソロが入った事も、色彩が豊かになって成功です。三木さんの棒も仲々のもので、作曲者の意図をしっかりと伝える音楽になっていました。唯一点、バリトンのソリストが、声を聴かす事に懸命になってしまい、曲想から外れてしまった様に感じました。“とにかく素晴らしい作品です”。もっと日本中で演奏して欲しいですね。(初演ソリスト)

■浅草混声の演奏会ご成功おめでとうございます。三木レクのあるべき姿を再確認いたしました。意図したテンポ設定、言葉の立て方、メロディの際立たせ方、時に激しく時に抑制した感情の表出。余分な動きの無いバトン。心洗われましたというのが素直な感想です。
いくつかの合唱団が合わさっての公演で大変だったと思いますが、作曲者の棒に一所懸命ついて、三木レクを心から歌い上げようと言う真摯さが横溢しており、それが、聴く人にも伝わったと思います。それにしても、嫌味の無い指揮?で……、ある種の浄化されたもの。やはり、音楽に対する深い造詣と、経験と、人間性のなせるところなのでしょうか。(この作品に通暁した指揮者)

■作曲家の指揮といえば、ストラヴィンスキーによるN響のものが思い出されますが、三木先生が指揮台に立ったとき「作曲者」というその世界を作った「神」があらわれた、そんな神々しさを感じました。適度に抑制され、冷静でありながら温かな心を伝えてゆく指揮。作曲者が意図した世界をはじめて聴いている、ずっとそんな感動に包まれていました。
新しく作曲された《花の歌》を実演で聴いたのは初めてでしたが、三木先生の《愛怨》や《じょうるり》などで聴き馴染んだ、三木オペラ特有の声の扱いがさらに作品の奥行きを広げたことを感じました。聴いていて、オーケストラの音まで聴こえてくる様な、美しい楽章でした。ぜひとも、全楽章オーケストラもしくは、吹奏楽伴奏による演奏が聴きたいものです。(アンコールの)《あしたまた》の混声合唱版もよかったですね。演奏会でちゃんとした形で聴いたのは初めてかもしれません。(その指揮をした)谷さんをはじめ、合唱人の歌への愛を存分に感じる演奏でした。(音楽評論家)

■昨日は満席の中の大拍手のカーテンコールおめでとうございました。お年を召されたコーラスの方々のモーツァルトは、そこそこに楽しみました。しかし、和訳の文章をあらかじめ読むと、メンバーの方々のキリスト宗教に対する理解やいかほどに、と疑問を感じながらのモーツァルトでした。三木レクイエムは私に身近に語りかけてくれました。特に、太平洋戦争で無為、無念のまま死んでいった、私の親父を含め多くの方々への、まさに鎮魂歌。涙がしぜんに湧き出てきました。ぼやけた目からコーラスの方々を見ると、上気し、涙を浮かべている方々が多くみられました。御自分の親族、友人達を思い浮かべながら宗教を越えた感動を受けながら唄っておられる。目を転じると、三木さんが汗を拭きながら指揮をとっておられましたが、うしろの座席から「汗をふいているふりして、涙を拭っておられるんだよ」というつぶやきが聞こえてきました。ぜひとも再演をお願いいたします。(友人)

■昨日、浅草混声合唱団のモツレクと先生のレクイエムの合唱に参加させて頂きました。
昨年夏、レクイエムの楽譜を購入して間もなく、改訂版が発売されるという話を耳にしてヤマハで偶然見つけて、どうしても持っていたくてうれしくなって購入しました。
歌う機会はなさそうだと思っていたところ浅草混声の方からお誘いがあり、練習に参加することが出来ました。正直私にとって初めは難解だと思われる曲でしたが、歌えば歌うほどその良さがクローズアップされてきて、昨日は十分堪能出来る演奏が出来たと思っております。今後歌う機会があれば是非再び参加したいと思っておりますのでよろしくお願い致します。(合唱参加者)

■久しぶりに、ミキレクを聞かせていただきありがとうございます。前回はリーダーターフェルの男声でしたが、今回の混声はバランスがよく、とても感動的でした。「花の歌」が加わり、戦争鎮魂歌としての劇的な盛り上がりを支え、そして、終曲にいたる静謐な響きは人の心を打つものがあります。ほんとに素晴らしいと思います。ありがとうございます。(ファン)

■昨日の演奏会、本当にありがとうございました。三木先生の指揮で改訂版初演の演奏ができましたこと、心から光栄に感じています。また、本当に素晴らしい作品だなあということを実感しました。それから、昨日も申し上げましたが、先生の指揮をみていると、棒の先に伝えたいこと、表現したいことというものが強くにじみでていて、演奏家としてはすごく演奏意欲をかきたてられるもので、そしてそれは幸せなことです。感動しました。お客様にも合唱団の方にもあれだけ喜んで頂き、更に何と言っても作曲者である三木先生にお褒めの言葉を頂けて本当に嬉しかったです。今回の演奏会は色々な意味で演奏家冥利に尽きるものとなりました。ありがとうございました。(演奏参加者)

■昨日は本当にありがとうございました。先生に指揮で、先生のレクイエムを浅草混声で全楽章演奏できた事は、私の夢でした。私には先生のレクイエムの魅力と恐るべき力には自信がありましたから、みんなが実は最も飢えていて、そして本当に欲している音楽を伝えるということが、最高の、そして理想の形で実現できて本当に幸せです。たくさんのお客さまから、「これほど三木先生のレクイエムがすばらしいとは…」「本当に感動しました。詞もすばらしい…」と、絶賛の声やメールが、殺到しています!《あしたまた》も大好評で、たくさんの演奏会でまた歌わせて頂きます。(合唱団責任者)

■昨日、旧知の指揮者がほんとに感心感動して僕に話していました。当日終演後は興奮して言っていましたが、昨日は冷静に繰りかえしていました。実際、指揮ぶりは、僕には入魂の指揮と言うか入神の技と言いたく、真にその指揮者のいうとおりで、「ドウだ!」と言いたい所でした。僕はどうしても身内ですから、うまく行って欲しいと祈るほうでしたが、メンバーからすると、もともと作曲者指揮にのめりこんでいた上に、通し稽古から本番への指揮を見て、これだ、と更に奮い立ったと思います。それで一層良い物になりましたね。
男声合唱の仲間たちが、たくさん電話やメールを呉れましたが、皆最大の賛辞です。異句同音にモツレクがかすんだと言います。出演者の友人で、始めて三木レクを聴いたと言う人たちも、同じ趣旨のことを言ったと言いますからホントなんですね。並んで聞いたので三木レクの大きさがはっきり解って貰えたのですから。まだ空中を歩いているようで、凄い満足感と虚脱感で、立ち直れません。(副指揮者、互いに合唱を始めた時からの親友)

■昨日は予想道理に本当に素晴らしい演奏会になりましたね!最高の舞台でした!ありがとうございました!出演者と観客と指揮者とが一体になって完結した見事なレクイエムだったと思います。昨晩から続々とメンバーから感謝と感動のメールが入り、その返信に追われておりました。浅草の三木レク練習に参加させていただいてから、丁度一年になります。一年間、休んだのは昨年の八ヶ岳の音楽祭明けの1回だけ。深い思いいれで歌いこんできた三木レクを幸せな形で歌い終えさせていただけた幸せは、筆に尽くせません。本当に有難うございました♪♪ 今回の演奏会は、三木先生はじめ、ご縁を頂いた多くの方々とともに私の宝物です。興奮からさめ、一抹の寂しさも忍び寄ってきます。でも”船を返す すべも無い♪”(合唱参加者)

■思えば3年前、《レクイエム抄》の演奏を財務省コールコスモスで取り組んだときから、この曲の深さ・美しさの虜となり、夢にまで見た全曲演奏、それも改訂版の初演を、三木先生のバトンの下に歌えたという、正に望外の喜びでありました。演奏会のあと、改めて、小林研一郎指揮東京交響楽団、リーダーターフェル版のCDを聴き返しましたが、オーケストラで歌えたらどれほどの感動があることか、と叶わぬ願いに胸を焦がしました。いずれにいたしましても、今回の演奏を聴かれた600人余りの観客の心に、このレクイエムの大きな存在感が刻み込まれたことでしょう。もっともっと演奏の機会が訪れるべき。真剣にそう感じております。(合唱参加者)

■おめでとうございました。私も、すばらしい名演だと感じました。先生の音楽には魂を感じました。合唱団員もあの時代を生き抜いたり、あるいは身近な時代として見聞きしている人が多いのか、戦時、戦後の情景がまざまざと浮かんでくるような感触をうけました。昨夏他界した父や母から戦時の話はよくきいていました。我々の世代はすでにその時代を過去のものとしています。先生の音楽が生き残った日本の血族に炎を灯してくれる気がします。帰り際にひとつ考えたことがあります。
前衛とか、実験音楽がいまだに我々を苦しめています。しかし、よく考えると旋律や歌を失ったのは我々の直前の一時期に過ぎないのでした。実験音楽が歌から離れつつあっても、やはり、歌う音楽は残り続けてきたのでした。技術的、機械的な音楽は残っていませんが、バルトークやシマノフスキのように土地の魂を受け継いでいる「歌う音楽」はきちんと歴史に残っています。難解に音楽を書かねば作曲家ではないような危機感を若いころの私は受けていました。いうなれば、自分が書きたい「歌」を無視して、書きたくない音楽をかこうとしていたことを思い起こしていたのです。
テキストと音楽とは内面的であったり直接的であったりして音楽、あるいは音楽を創る同期や素材として我々に刺激をつきつけてきます。すべては「歌え」といってくれているような気がします。小手先の技術や複雑な数学的構造をもつ作品をつくらなければならないような錯覚は虚像であると、感じた次第です。心の声と響きを素直に書いていけるような素直さの重要性を今一度かみしめながら、帰途についた次第です。書きたい音を書くこと。自分の作品に対するこだわりをもっと大切にして、迎合しようとしていた弱さをなくしたいものです。
さまざまな職経歴を経て音楽の世界に戻ってきた私は、先生の《レクイエム》をきいたことによって、書き続ける勇気、指揮し続ける勇気を得たようです。ありがとうございました。(作曲家・指揮者)


三木 稔