ホノルル・アドヴァタイザー 2005年3月13日
協奏曲というものの長く栄誉ある歴史の流れは、ほとんど全ての楽器のレパートリーを大きく拡げて来た。しかし、クラシック音楽のクロスカルチャー的な動向が国際規模で顕著になってきたかに思える現在でも、すくなくとも最近までは、中国琵琶の協奏曲がそのレパートリーに含まれてきたことはない。
今までに書かれた数少ない協奏曲のなかで、最も評判の高い琵琶協奏曲の第12回目の公演が、アメリカ初演として、金曜日の夜、ハワイで、作曲者臨席のもとで行われた。
1997年、日本の三木稔は琵琶とオーケストラの協奏曲を作曲したが、それは中国の琵琶演奏第一人者、ヴィルテユオーゾとも呼ぶべき楊静(Yang Jing) と、アジア楽器で編成されたオーケストラアジアのためであった。その後三木は、さらに多くの演奏機会を実現させるべく、西洋オーケストラのためのヴァージョンにとりくみ、1999年の東京における初演(楊静と東京都交響楽団、指揮:大友直人)へとつながっている。
金曜日のコンサートは、その楊静自身の出演とともに、アラステア・ウイリスが客演指揮をしたホノルル交響楽団により演奏された。
演奏前の楊静による説明によれば、中国琵琶はリュートの仲間(thick guitar) の4弦の楽器。頭の部分には手の込んだ象牙の彫刻飾りが施され、胴体には高めのフレット(柱)が整然と取り付けられている。外見は華奢であるが、実はとても重たい。奏者はこの重みを膝で支えて演奏するのである。 隣人が持っていた琵琶に魅せられた楊静が琵琶を習い始めたのは、彼女が6歳の時であった。今から思えば、その時期琵琶を買い与えてくれた両親の決断に感謝と驚きを禁じ得ないと楊静は言う。当時の中国は文化革命の最中(直後は誤記)、普通の人間には楽器を持つことなど思いも及ばないことであった。『月給はとっても低くて、楽器の値段はすごく高かった』のである。
三木の琵琶協奏曲は、中国の詩人白楽天による『琵琶行』に触発されて作曲されたもので、楊静も、『唐王朝時代に書かれた、私たちの歴史の中で最も大切にされてきた詩』であると言っている。
三木は白楽天の詩に驚嘆すべき手法で命を吹き込んだ。彼の音楽が織りなしたのは、美しく才能ある琵琶奏者が詩人の前で琵琶を奏でているファンタジーだけではない。それはまさに現世で演奏され、息をのむほど美しく類い稀なる音楽の才能が、聴衆を魅了したのであった。
協奏曲は伝統的手法に則って、3楽章で構成されている。第一楽章は、女が詩人に向かって琵琶を奏でるたび、さまざまな楽想が去来する。ハイライトは琵琶のソロが打楽器だけを引き連れて、フィナーレの前の増幅を繰り返すリズミックなパッセージに導かれていくくだりである。
第二楽章の『琵琶譚詩』は、美しく悲しい、ゆっくりとメロデイックな女の身の上話である。音を聴いていれば、それは透明なのだが、語られているのは複雑で精緻な情念に裏打ちされた美だ。丁度日本の伝統芸能で、語り手が張り扇で打つように、琵琶のサウンドボードを叩いて出す音型を句読点としている(演奏前の作曲者の説明)。
第二楽章が「私、プライベート」とすれば、第三楽章は「公、パブリック」である。情熱的な即興カデンツアがクライマックスであった。
この物語を描くに当たって、三木は各種の音色と効果を印象的に使用した。それら、ハーモニックスや音の揺れ、管楽器のフラッターツンゲ、ヴィヴラートや滑音、即興を生む諸技法は、楊静の抜きん出た技術と音楽性を発揮させるべく巧みに配置されている。
楊静の演奏は、その演奏姿も音楽も息をのむ美しさであった。彼女の強くて細いしなやかな指は弦の上を舞い、嵐のような激しさを受けてたつのは、ただ一つ『ピーン』とハーモニックスで弾かれる全き繊細な音であったりする。彼女は最もこまやかなニュアンスの表現にまこと秀でていて、その音ひとつ一つが完璧にはめ込まれた宝石のようであった。
この夜のクライマックスは何と云っても、三木の協奏曲と楊静の演奏であったのは、聴衆の反応を見れば明かであった。
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