オーケストラ・アジアとわたし
1983年、日本音楽集団が初の中国公演を行った。北京で3回、上海で2回だった。来日中の作曲家王燕樵氏が中国音楽家協会を招待団体として機能させ、当時として最高の条件を整えての公演で、王氏の絶っての希望により、三木作品は《巨火》《コンチェルト・レクイエム》《古代舞曲によるパラフレーズ》など8作品が演奏された。文革が終息して7年、毎回の公演には向上心に溢れた両都市の大学生・大学院生を中心に、常に百人もの作曲家が聴衆に混じっていた。1990年、初来日した譚盾(タンドゥン、現在世界で最もアクティヴな作曲家)が、私に会いたいと探して来て「自分たち中国の作曲家はあの時の三木さんの音楽を聞いてから変りました」と告白したほど、カルチャーショックを残したそうだ。89年6月、天安門事件と重なった中国楽器國際コンクールの唯一の外国人審査員として呼ばれて行った時の中国のお歴々もそうであったし、その後も訪中の度に中国音楽学院教授でリーダーの一人である李西安氏など各地の作曲家から私の作品の影響の深さをレクチャーの場などで語られ続けた。それらは、私が日本音楽集団結成以来高々と掲げ、それに向けて実行してきたアジアの音楽家としての理想が間違いでなかった証しとして、どれほどこの十数年の私の創造活動への自信につながっていることだろう。無二の機会を作ってくれた王氏や、優れた演奏をした日本音楽集団の仲間たちに感謝のほか無い。王氏は、未来と過去をつなぐ長い天秤を一緒に担げるアジアの友であった。
このコンサートの企画が持ち上がったとき、私は即座に長年の希望であった中国の民族楽団との共演を着想し、王氏は知己を手繰って中央民族楽団との共演機会を実現させた。私は《彩虹序曲》を作曲、長沢勝俊作曲《寿歌》、王編曲《瑶族舞曲》と併せて3月5日、北京紅塔礼堂で田村拓男指揮で初演された。世界に民族楽団は数多いが、異民族・異国家の民族楽団同士の共演は史上初であったと思われる。1964年、日本の楽器を糾合して日本音楽集団を創立したとき、私は、撥絃楽器を主とする日本の楽器でオーケストラ的な大アンサンブルを確立する困難を認識し、オーケストラは中国の二胡族を含めたアジア規模であることを想定していた。日本音楽集団創立演奏会に書いた作品が《弦と日本楽器のための協奏曲》であったのは示唆的であり、81年にゲヴァントハウス管弦楽団と日本音楽集団で世界初演された《急の曲》を含む《鳳凰三連》は、その理想の体現であった。
84年私は、発行人であった集団の機関紙「邦楽現代」に連載していた「歌楽帖」10回目として書いた『アジアの可能性』で、「私は耕し種を蒔くべき人間であって、既得の耕地の植物を揃えて育てる時期にきた集団には無用の長物かも知れない。次なる荒地に向わねばならぬ」と書き、ほぼ目的を達成した日本音楽集団の仕事から引退し、オペラに集中することとなった(85年《じょうるり》世界初演をはさんで、86年「歌座」創立とつづく)。その年、韓国中央大学で民族楽器科を教え、自身ピリの演奏家でもあった若い朴範薫氏が、かつて武蔵野音大に8年いた頃に習ったという音楽評論家・石田一志氏の紹介で私に会いにきた。私は集団の練習場で《秋の曲》を聞かせ、多くのLPを贈呈して、集団の活動を伝え、アジアの民族楽団同志の共同作業の必要を説いた。
帰国した朴氏は中央大学の学生を組織して中央国樂管弦楽団を作り、89年には日本音楽集団との共演を望み、韓国と日本で実現した。在野の若いソリストたちを結集して創立した日本音楽集団の、ソリスティックに各パートを運用する音楽創りと、学校という強力な指導体制の中で学生中心に組織し、各パートが多数の奏者で構成される中央国学管弦楽団のポリシーの融合は、国境を越える以上に難しいと私は感じていたが、朴氏の意欲に組し、集団を引退していてもアジアにはダイナミックに対応していた者として《SOUL》を作曲し、全力を挙げてサポートした。
この年、北京では天安門事件が勃発し、集団と中国の放送交響楽団で企画していた《急の曲》やシルクロードを含むツアーは中止のやむなきに至った。事件当時、北京に逗留し、交響楽団側とその企画の具体的な討議をしていた私は、帰国して《北京梼歌》を書き、東京交響楽団の初演テープが香港から本土に放送され、私はしばらく中国に入る機会を失った。しかし92年、中国と韓国の国交が回復、政治感覚に優れた朴氏はアジアの民族楽団を組織するチャンスだと主張、朴氏と親密な交流をしていた元日本音楽集団事務局長・奈良義寛、日本青少年文化センター事務局長・田村民雄、NHKエンタープライズ部長プロデューサー小野康憲氏、朴氏がコネを持つ元中国中央民族楽団の指揮者の劉文金氏に、私を交えて日中韓三国の民族楽団創立の機運が加速した。当時日本はバブル崩壊が言われてもまだ実感のない人も多く、アジア諸国、特に韓国の経済的繁栄は絶頂期にあり、中国は_小平の開放政策宣言直後で、天安門事件は風化の兆しがあった。3国の音楽技術的な習熟度の相当な違いから時期尚早と感じ、かつ幾つものオペラや西洋オーケストラへの作曲、歌座の運営などで極度に多忙を極めていた私には悩ましい動きであったが、「オペラ」と並んで「アジア」を二大ライフワークとする作曲家にとって、目標であったアジアの民族楽団の共同作業は、個人的な事情を超えて主体的に参画すべきものに違いなかった。
かくしてオーケストラ・アジアは、日本音楽集団・中国中央民族楽団・韓国中央国樂管弦楽団と作曲家・制作者たちがソウルに集まって、1993年9月、まことに景気よく創立された。私はアジア民族楽団やアジア音楽集団という団名でなく、世界に通じ、国際的にクオリティーを問われるオーケストラという名を持つ現呼称を提案し、全員の賛同を得た。翌年3国の作曲家によるレパートリー作りから始め、94年6月ソウルでの3日間の白熱した合宿後、芸術の殿堂コンサートホールで初公演。私は故郷徳島・旧制高校時代のよしみの岡山での大きな公演チャンスを創成して、ソウルに続く一連の演奏ツアーが行われた。少し前、私が「無限大」という雑誌に書いたエッセイにNHKのあるプロデューサーが感動し、30分のドキュメント『アジアを結ぶメロディー 作曲家三木稔の夢』を制作してBSにて放映した。 私は芸術監督として楽団の進路に重大な責任を負いつつ、9年間でFolk Symphony《伝々囀》、《夢・楼蘭》、《琵琶協奏曲》、《SOUL2000》、《彩虹序曲》という、異なったタイプの5つの作品をこの楽団のために書き上げることになった。
オーケストラ・アジアに集結した東北アジア3国の伝統楽器は、もともとは中央アジアから古代中国、そして朝鮮半島経由、もしくは直接日本に伝わった親族の楽器が多く、長い間に各国別々に改良されながら、それぞれの伝統と個性を誇ってきたもの。したがって、ルーツは同じであっても、共通のルールを備えた合奏のノウハウ創りは極めて困難な作業である。私は各楽器の個性を損なうことなく、それらが合わさった新しい音色や音の流れを産み出すことに挑戦し、約50種の伝統楽器を再編成しつつ、西洋のものとは鮮やかに対称する東洋のオーケストラを求めて努力を傾けた。
一方、オーケストラは多数の聴衆を対象にしか存在し得ない。最初のレパートリーは、より多くの人たちに親しまれる各国の民謡や民族音楽を基礎に創った。この方法は、通常自国の楽器で奏することによって表現が限定されてしまっている民謡に、新たな生気と普遍的な美しさを探るいい機会にもなった。これらの新作品の旋律やリズムは、各楽器の基本性能に無理なく合い、人々はまるで百年も前からこのオーケストラと親しんできたような心安らかな楽しみ方をしているようにみえた。そのカテゴリーに属する創立時の作品、
趙咏山作曲《恋歌・山民舞》、劉文金作曲《茉梨花》
白大雄作曲《南道アリラン》、朴範薫作曲《舟歌》
長沢勝俊作曲《鄙歌》、三木稔作曲Folk symphony《伝々囀》
で、95年の日本ツアーまでをカバーした。この年は初期の財政をカバーするため、私は、ゆかりのある岡山県勝山町の辻弥兵衛氏の紹介を得て、隣の落合町での合宿を実現、再度の岡山シンフォニーホールの協力も得、震災直後の神戸文化ホールでの感動を呼んだ半ばボランティア公演、そして東京と深みを持たせたが、二年目は誰も新作は追加できなかった。
未来を志向する団体は、新たなアジアのアイデンティティー創りを心がけねばならない。各国の伝統にあぐらをかいていては21世紀に向かう希望は持てない。実験のための実験でなく、アジアの共通項を探り、新たな普遍を創造する聖なる試みでありたい。私は目標を集約するためテーマとして、東アジアの人々の心を捉えて放さない「シルクロード」を選んだ。96年に始めたそのカテゴリーのために、
三木稔作曲《夢・楼蘭》
が登場した。96年は、9月に初期曲目による国立劇場での文化庁芸術祭主催公演への参加、12月の大阪・富山・神戸・福岡・仙台・東京のそれぞれ最良のホールでの公演、更に北京紅塔礼堂と新しい北京音楽庁での公演というオーケストラアジアで最も幸せな時を持つことができた。民謡路線での、王志信作曲《峡北風情》が加わり、朴範薫作曲《協奏曲サムルノリ》でキム・ドクス率いる4人のサムルノリの、各打楽器の片手打ちがもたらす異常な迫力を持った農樂独特の変拍子リズムをそのまま取り込んだ音楽が、聴衆の爆発的な人気を得た。
このサムルノリは、すでに名の知れたグループを逆利用したわけだが、優れたソリストを育て、その技術を最高度に生かすための協奏曲があって初めて、楽団のレパートリーは一つのサイクルを形成することができる。芸術監督として最初に選んだのが、当時は中央民族楽団に所属していた中国琵琶の傑出したソリスト楊静で、
三木稔作曲《琵琶協奏曲》
が、長野オリンピック・芸術プログラム委嘱作品として97年に完成、大阪・長野・志賀高原・東京で華を持って初演された。私は、楊静が私に紹介した中国の中堅作曲家唐建平も登用し、彼が作曲して、少数民族の伝統の効果的な採用と、多数の民族楽器のダイナミックな新しい道を示した《後土》などとともに、《琵琶協奏曲》はNHK―TVで放映された。
この年は、続いてソウルでの2公演も行われたが、オーケストラアジア内で選曲などのコンセンサスなしに、公演旅行中、朴範薫作曲《東漸》ほか3曲もの韓国作品を急に演奏することになり、予定の新作のカット上演や練習時間の調整など多国籍合奏団の難しさが見え始めた。それらがいい出来の作品とは言い難かったため、全体の芸術監督としては施しようの無い感懐を持った。
指揮は、3国の楽団の指揮者がそれぞれの国の作品を振るという形が3年続いたが、私は、一人の指揮者に任すことによって音楽的に飛躍を遂げる可能性を求め、毎年のツアーは一人の指揮者が担当するシステムを97年から採用し、創立時に功績大で、韓国でカリスマ的人気があり、常任指揮者でもある朴範薫に先ず担当してもらった。しかしこの方式と、日本の演奏者をオーケストラアジアへの直接登録制をとりたいという将来案を巡って、オーケストラアジアと日本音楽集団が折り合えず、集団は協力団体を撤退し、自由参加のJapan Ensemble (2000年から「オーラJ」 を名乗る)を急遽組織せざるを得なくなった。集団からの完全移籍者数人と、両方にまたがる人たち、オーディションで集めた演奏家の寄り合いは、当然ながら後に混乱を招致することとなった。
98年は5周年に当たり、12月3日東京オペラシティコンサートホールにおいて、第一・第二のカテゴリーから選んだ第一部《恋歌・山民舞》、《鄙歌》、《南道アリラン》、第二部《夢・楼蘭》、《後土》の曲目、稲田康の指揮で東京の公演を、大阪は事務局制作の大衆向けプロでの小公演を行った。97年以来アジアは不況にあえぎ、なんとか日本の2公演で面目をつなぐ。私自身もオペラ第7作《源氏物語》の作曲に集中して、動きが取れなかった。
99年は7月に、三井広報委員会主催で日中共同の音楽劇《天人》(作曲・唐建平、演奏・オーケストラアジア特別編成, 指揮・稲田康)が北京で上演された。その機会に、三井広報委員会の特別協賛を得てオーケストラアジアの中国ツアーが北京・上海で行われた。 97年のアイディアを続けて、次のコンチェルト及び民族発声の歌を伴う作品が追加された。
劉文金作曲 二胡協奏曲《秋韻》
三木稔作曲 《SOUL1999》(前半部分《鎮魂》は尺八協奏曲として機能)
朴範薫作曲 《管弦楽と唱による“恨”》
それに先立って3月、北京にオーケストラアジアの音楽責任者が集まって技術的な会議が催された。しかし、2日間の会議が必要と説いて、たくさんの懸案を用意していった私は不完全燃焼に終わった。結局、この楽団でアジア共通のアイデンティティを探る抱負など三木個人のものに過ぎないことを確認に行ったようなようなものだった。各国の音楽監督に討議への真剣な心構えは窺えず、会議の場所は用意がなく、うるさいホテルのレストランの一隅で、オーケストラアジアの楽器選択とバランス、特定の楽器の機能改善、新しい有能な作曲者の発掘、指揮者やソリストの外部からの当用といった将来を決する大問題を討議することができようか。音楽会議は2時間の雑談に近いミーティングに終わった。目前の7月の選曲にしても、日本での初演時、中国の関係者たちが「今後百年これを超える琵琶協奏曲は出ない」とまで口々に称揚し、順当ならば99年のメインたるべきは、私の《琵琶協奏曲》であるはずだが、中国楽団内の年功序列が厳然とあり、当時の団長とは理想を異にする楊静のソリスト登用は無いのであろう、この会議では誰からも提案されず、地元中国での初演は行われるよすがもなかった。
心底から失望した私は、四面楚歌の中で、この楽団の音楽的理念をどこに置くかを真剣に再考した。下記は抜本的な改革でなく、現状を踏まえての窮余の策である。
数百年の歴史を経て細緻なアンサンブルに到達した西洋のオーケストラと同じ表現ではオーケストラアジアの存在理由の半ばは失われる。それは当初からの私の持論であった。そして、未だ不揃いな各国の楽器改良過程や、長年の音楽志向の差、指導者たちの大衆へのアプローチの差を、逆に生かすしかないと考えた。例えば一つの音が出す幅を、純音的に合わせようとせず、ガムランの鍵盤楽器のように、むしろ差音による唸り現象を尊んで、太いユニゾンが強いアッピールを齎すことができる。勿論、アジア独特のヘテロフォニ−で合奏を組み立てることも素晴らしい。そして各国の持つ見事なまでに多様なリズムをアジア共通のアイデンティティーとして、この楽団独特の表現力にしたい。また、東北アジアの「こぶし」は、西洋にない味をソロで聞かせてくれる。芸術監督としての責任を背負い、荒々しくも活力に満ちた世界唯一の非西欧オーケストラとしてのオーケストラアジアの特徴に合致する自作を用意しよう。
3年を要したオペラ《源氏物語》作曲の大詰めの期間にあって新作は勿論書きえず、熟慮の結果、日本音楽集団に作曲した《巨火》、日韓への《SOUL》に続き、後半を秩父屋台囃子のリズムを基本とした同じマテリアルで、前半を「鹿の遠音」による尺八協奏曲の機能を持たせた《SOUL 1999》を3国の合同楽団に用意してレパートリーに載せた。その鎮魂と振魂の意を併せた作品は、私にとってアジアのエスプリを持った最善の方法であった。
2000年12月はソウル・東京ツアーで、東京では、初めてすみだトリフォニ−・ホールで行われ、第一部《秋韻》、幻想組曲《天人》(音楽劇より改編)、第二部《恨》、《SOUL2000》のラインアップが、専門家にも、一般聴衆にも強い印象を与えた。《SOUL》の後半《振魂》は、素材を邦楽器アンサンブル最大の曲《巨火》の第三部と共通するが、上演の都度、その年号を冠し、オーケストレーションをその時の編成にに合わせて作曲者が変更する。1999の時は、後半の楽器の組み合わせが万全でなかったが、2000では、聴衆を熱く巻き込んでコンサートを終了させる理想に近づき得た。
発足時には、政治も経済も、そしてどの文化領域も試みていない「新しい共通アジアのアイデンティティを確立する」夢を、私は器楽文化で、他に先駆けて果たしたいと思っていた。アジアは、今大変な経済的困難に直面しているが、「21世紀はアジアの世紀」だと目覚めた人々の目標が潰えることはあるまいと、何度も何度も考え直してきた。しかし私の夢や方法論と、現実にはばらばらの3団体や、演奏家たち、事務局スタッフとのギャップは大き過ぎたようだ。
2001年に、オーケストラアジアはついに公演を持ち得なかった。私は、全体で見果てぬ夢を、当面日本で醸成するために、98年にオーケストラアジアのJapan Ensemble としてスタートした「オーラJ」の自主活動を強化し、毎回クリアなテーマを持った年数回の定期演奏会体制の整備に入った。それをクリアしないことには、十分な公演を打つための資金助成を国から受けられないし、オーケストラアジアの中核としてアンサンブルを支え、かつ聴衆に愛され、コンサートに足を運びたくなる楽団としてのステイタスや魅力を蓄えられないことは自明である。
2002年になった。「かぐら2002」とタイトルし、邦楽器群と各種舞踊とのユニークな結合を計って、聴衆から大いに支持された1月の第9回定期演奏会を終えた後、代表・坂田誠山、二十絃筝ソリスト・木村玲子、作曲の佐藤容子たちのように、私と同じく高度な音楽を志向する団員たちと、定期公演そのものを望まず、自発的な聴衆動員協力を拒否し、オーケストラアジアで他国の演奏家たちと楽しく演奏することでよいという人たちが激しく対立した。意外にも、後者には長年私が信頼を与えつづけてきた事務担当者がバックアップして、いうなれば「癒し志向の時代」の論理を展開、中間に立って折衷しようと心がけた人たちも為すすべがなかった。
私は、他国のみならず日本のこの状況を見て、自分に残された時間で、この運動に託した理想は絶対に果たしえないと絶句し、自分はどちらからも退こうと考えた。しかし真摯に行きたいという人たちの要望を絶つことは不可能で、もはやこの際安易な心構えのメンバーの参加は不要と考え、所用で欠席せざるを得なかった次の集会に、次のようなメッセージを送って課題としてもらった。
- 「オーラJは、まさにオーラを背負って人々の幸せに奉仕できる音楽作りを、団の総意として先ず定期の場で真摯に表明し、それを広げていくポリシーを確固として推進していきます。基本理念において、先般来の不毛な論議を蒸し返すことは一切したくありません。別のお考えの方はそれぞれに向いた道をお進み下さい。」
その席上、坂田代表は「三木さんがオーケストラアジアとオーラJ両方の芸術監督であり、オーケストラアジアのツアーへの参加を決定する」と参加者に告げたという。それを聞いて私は、これは何か反動がくると感じるところがあった。
数日後、オーケストラアジア事務局からメールが来た。「オーケストラアジアの制作方会議を持ちました。会議の中で芸術監督の話になりまして、長い間三木先生にお願いしていた芸術監督を、日中韓国民交流年の記念イベントとして実施する今年からは朴先生にお願いし、北京オリンピック開催前年から中国の然るべき方に芸術監督をとの意向でした。」
なるほど、と感心した私はもう争う気持ちも起こらなかった。かつて歌楽帖に書いた『アジアの可能性』の章を思い起こしつつ、そのメールを『解任』と理解してすんなりと受け、自ら名付けたオーケストラアジアから退くことを即決した。オーケストラアジアは、実質的にコンサートをプロデュースしてきた日本委員会というのがあり、私はその委員長としていろんな場合に実印を押す責任者である。そして芸術監督は、その日本委員会から委嘱されていることになっている。その私が呼ばれない会議で芸術監督の更迭を討議する心根がなんとも哀れな構図に思えたが、この方法しか癒しを求める人たちを救う道が考えられなかったのであろう。その人たちや政治に長けた指導者たちにとっては、私のような求道者抜きのほうが効果的にオーケストラアジアを持続でき、初期の目的の一つはむしろ達成が容易かもしれない。それもよかろう。
私はここまで書いてきたように、すでに自分の生きている間にこの団体で自分の理想は果たせないと挫折感を持っており、十数年前から頭に描いていた、少数のアジア各楽器のトップソリストによる「アジア アンサンブル」創立・推進に進路を切り替え、極めてスムースにオーケストラアジアでの全てを譲ることができた。「オーラJ」に残る人も、通称「オケアジ」と親しまれたオーケストラアジアのツアーに参加することは自由であるとの通知も忘れなかった。「オーラJ」についてはこのHPの別項目を見ていただきたい。
勿論、私には他の誰よりも真摯に書き続けたオーケストラアジアのための作品群がある。これらは9年間も私を慕ってくれた日中韓の演奏者たちが、きっと大事に育ててくれるだろう。事務方からも、たまたま1年置いて2002年11月に予定されていたツアーのための新作として、1993年日中合同記念作曲《彩紅序曲》のオーケストラアジア版を作って欲しいと頼まれた。それは喜んで受けた。もう一つのライフワーク「オペラ」と並行して、9年間にオーケストラ作品を5作書いたことは、結果的に、まさに命をちじめる創造行為であった。
繰り返し書くが、オーケストラアジア発足時には、政治も経済も、そしてどの文化領域も試みていない「新しい共通アジアのアイデンティティを確立する」夢を、器楽文化で、他に先駆けて果たしたいと発言しつづけてきた。オーケストラアジアの殆ど全ての公式発言を一人でしてきたが、是非誰かが私に代わって夢を、そして具体的な技術の行く末を指示してもらいたい。私は、同じ内容を「アジア アンサンブル」「オーラJ」「結アンサンブル」そして「アジア・シルクロード音楽フェスティバル」のようなプロジェクトを通して終始変わらず主張し続けていく。
2003年初頭
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