三木 稔 Home Pgeへメッセージへ
Photo
2001.1
《大地の記憶》作曲の由来
三木 稔
 
 《二つの世界のための交響曲》"Symphony for Two Worlds"が、東独ライプチッヒに落成したばかりのの新ゲヴァントハウスで世界初演されたのは1981年秋。感動的な初演直後のパーティーで、指揮者でありこの曲の委嘱者でもあったクルト・マズアさんから早速次ぎの委嘱の提案を受けた。19年前のこの交響曲は《急の曲》という正式日本名を持ち、最低16人の各種邦楽器と三管編成のスタンダード・オーケストラによる36分の大曲で、ゲヴァントハウス管弦楽団のみならず、1994年マズアさん指揮のニューヨーク・フィルなど、内外の多くの管弦楽団と、日本音楽集団もしくは「オーラJ」(オーケストラ・アジア「ジャパン・アンサンブル」)との共演による上演がもう30回近く、毎年のように続いている。オーケストラと邦楽器群による《序の曲》(1969)、《破の曲》(1974)と組合わせると《鳳凰三連》"Eurasian Trilogy"という一晩通しのプログラムとなり、1982年読響で初演された。だが、《急の曲》の幸せな世界初演は、事情あって私が邦楽器の運動から一時身を退く運命と裏腹でもあった。その予感のせいもあって、ライプチッヒから帰路のローマで、私はミケランジェロや古代の遺跡から次ぎのような構想を、迸るような電撃的な啓示として感じ取った。
 前半はアジアの代表的民族楽器群と典型的な交響楽団による総合器楽。後半はそれに声楽が加わる。地球を分類するラテン系・ゲルマン=チュ―トン系・アラブ系・スラブ系・中国系、そして日本・朝鮮語系などの地域を代表する歌手たちが参加し、世界最古の平和へのメッセージをもとに創る詩を、それぞれの言語で絡み合うように歌う。合唱は上演国の言語で歌われ、かくして何年かに一度の《地球交響曲》"Symphony for the Earth"は、それ自体が世界民族の稀有の祭典となる。
 その私の構想に対し、マズアさんは即座に契約しようとおっしゃった。だがオペラ連作やアジア器楽の構想が熟していなかった私は、「2000年頃まで待って欲しい」と申し上げるしかなかった。《急の曲》によって、二十年にわたって献身してきた邦楽器への創作サイクルをほぼ果たした私は、他のアジアの民族楽器をテリトリーに加える計画の実現に向った。一方オーケストラに声楽を加えて、ベートーヴェンの《第九》を超える夢を忘れることも絶えてなかった。しかし、時を経、重い創造活動にまぎれて、この難問が風化して消えることをひそかに望んでいる自分を、恥ずかしくも時々発見するのだった。
 二年前のある日、マズアさんから国際電話がかかってきた。「三木さん、もう直ぐ2000年だよ!」。丁度、2000年6月にアメリカで初演するオペラ第七作《源氏物語》作曲の真っ最中だった私は、電話のこちらで一瞬ひるんだ。だが続いて「とりあえず冒頭の二十数分、読響で初演しようよ!」との提案に、難問に立ち向かう覚悟を最終的に決めた。
 
 上述の構想に従って長年ノウハウの蓄積をしてはいるが、おそらく最終的には2時間近くになるであろう《地球交響曲》の冒頭にくる第一楽章では、人類の文化遺産の音楽的側面を示すべきであることを悟り、その楽章独自のタイトルとして《大地の記憶》"Memory of the Earth"が浮かんだとき、私は初めて快哉を叫んだ。難航していた楽器の選択も、西洋のエトスを示す標準的三管編成オーケストラと対置して、東洋のパトスを示すものとして、中国の琵琶(Pipa)、モンゴルの馬頭琴、日本の筝(21絃)という、タイプを異にする三つの絃楽器を決め、管楽器は尺八に代表してもらうことにした。南アジアから、本来は合奏体でありピッチ体系が異なるとはいえ、長年私を魅惑しつづけたバリのガムランを外すわけにはいかなかった。各楽器の最高級の名手に「アジアのソリストたち」として出演して頂く了承を得た。《大地の記憶》とは、伝承音楽であれ私の過去の創造物であれ、たとえ断片であっても、彼らが演奏するそれぞれの奏法の白眉をこの楽章に記録し、新しい創造部分と折り合いをつけながら提示紹介する意味を持つ。それらは、オーケストラに書く古代旋法から近世的雰囲気、そして幾ばくかは現代技法を含めた循環テーマや背景音響と、共楽の広場を現出させるであろう。その意味では東西の中間であり、楽器の起源の地でもあるイスラム世界を措くわけにいかない。楊静作曲《亀慈舞曲》の一部を、許可を得て象徴的に使用させてもらった。
 このような目的をもった巨大な作品の立ち上がりの場を与えてくださった読売日響に、今感謝の気持ちでいっぱいである。新千年期の秋、新世紀を目前に、各個の歴史を歩んできた東洋の楽器たちが、西洋発のオーケストラと響きあい、世界を翔けるマズアさんの誘導で、音楽による、真の「民族共楽の広場」が現前する日を、私は今指折り数えて待っている。

2000年11月24日サントリーホールでの読響コンサートのプログラム
(月刊「Orchestra」2000年11月号)より


三木 稔