2003.3
03年 《琵琶協奏曲》の中国初演を終えて
この文章は、3月24日徳島新聞に掲載されたものに加筆修正しました。
《琵琶協奏曲》の中国初演を終えて
三木 稔
1997年に日本で世界初演した私の《琵琶協奏曲》が、6年ぶりに琵琶(Pipa)の母国である中国でやっと、しかし絢爛と初演された。私の作品は、昨年アジア各楽器のトップソリストのみを集めて活動を開始した「アジア アンサンブル」への "Origin"で、目標としてきたベートーヴェンの生涯作品数である136に達したが、数奇な運命を辿っている曲も多く、これもその一つだ。
《琵琶協奏曲》は長野オリンピックの芸術プログラムとして委嘱され、前年私が見出した北京在住の天才琵琶奏者シズカ楊静をソリストに、当時発足後4年目だったオーケストラアジアとのコンビで、大阪のザ・シンフォニーホール、長野、志賀高原、東京、ソウル(2回)と続けて演奏された。その時の中国側関係者たちが「今後百年、この曲を越える琵琶協奏曲は出ない」とまで口を揃えて激賞したのだから相当な成功作といってよかろう。
しかし、改良の進んでいない楽器と技術の及ばない奏者も抱えているオーケストラアジアは、この稀有のソリストの足を引っ張ることが多く、この初演ツアーの演奏は、実は私の理想から遥かに遠いものだったし、ソウルでは、考えられないような先方の事情で第二・第三楽章しか演奏できなかった。その後中国では3回ものチャンスがあったが、朱鎔基首相が最後の演説で指摘した腐敗公務員の典型のような中国側団長の操作や、若いソリストへの激しい嫉妬を持つ先輩の裏工作などに阻まれ、芸術監督の私にも中国公演で演奏させるすべがなかった。
だがそういった事情を当初から予想していた私は、より可能性の多い西洋オーケストラ版への移行を想定しつつ作曲し、初演後まもなく完成させていた。従って99年に東京都交響楽団が私の作品を特集した時、その版の初演を行い、楊静はサントリーホールの聴衆から、なんと5回のアンコールを受け、各紙は迷うことなく彼女を絶賛した。名古屋フィル、大阪センチュリー響の好演が続き、横浜ではアマチュアの町田フィルの力演があって、日本で企画されればどこでも成功が確信できる。しかし、琵琶の祖国、作品の題材の古里中国での受容にはまた別の心配があった。
この協奏曲は唐の詩人白楽天(居易)の《琵琶行》という詩のストーリーを借りた交響詩でもある。左遷され、都長安から遥か南の揚子江のほとりで侘しく過ごしていた詩人はある夜、客を送った舟上で類い希な琵琶を聞く。その演奏への激しい感動と、弾いた女性の身の上への共感の筆を、中国人は国宝のように愛している。私は音楽でその人たちを魂を揺さぶらなくてはならない。
更に中国のオーケストラ界にも官僚的汚染がはびこっているし、北京で上演されるには、今やまさに金次第の趣がある。もと放送交響楽団で、若手演奏家を中心に大進歩を遂げつつあり、数年前に中国フィルハーモニー・オーケストラと改めてトップオケの評判の高い今回のオケも、企画した後、日本からのスポンサーを求めて来たが私は果たせなかった。アメリカの作曲家にカナダ在の中国筝奏者が委嘱して私の曲の前に演奏した協奏曲の場合は、カナダの4つのスポンサー名がプログラムに並び、早くからこの演奏会で取り上げられるのが決まっていた。私の協奏曲が本当に演奏されるのが判ったのは、今年になってから30歳の副指揮者楊洋が譜読みを始めたと知ったからである。この楊洋が素晴らしい指揮をした。今までの誰よりも大きくパッショネイトで、幸せに安心して任せられた。
私はシズカが北京の洋樂界を震撼させるであろうことは確信していたが、昨年4月に日本から帰国した時、彼女は疲れのため空港で愛用の楽器を落とし、買い換えた楽器の製作者の問題で微調整が難しく、唯一心配の種であった。
リハーサルが始まる前から、今回の曲目で、最後に演奏される私の作品の前評判が行き交っていることを知った。3月2日、実際コンサートを聞いていると、他の中国人・アメリカ人の作品はよく書き込まれているが、今日性と強く人を引き込む魅力に欠けていた。北京唯一の英字紙チャイナ・デイリーが2日前に大きく私のインターヴューやシズカとの写真を掲載したため欧米人たちが目立つ客席で、中国の作曲家や演奏家も多く、私の曲とシズカの登場を待つ雰囲気が濃厚に漂ってきた。
国営中央テレビ(CCCP)が収録カメラ群をまわす中、田園的に始まる第一楽章は琵琶の登場でさっと引き締まってさまざまの要素が行き交う。身の上話に当たる二楽章はメロディックな語り。三樂章は急速に盛り上がり、シズカの驚異的なカデンツァに至って客席は必ず息を呑む。終わるや否や何人かの若いブラボーの叫びが拍手と同時に中国フィル本拠地の保利劇場に響き渡った。その稀有の技術や自在な音楽性のみならず、シズカは激しい指使いの中で緩む糸巻きを、まさに演奏自体のごとく数十回も締め直し、欠陥を魅力に変えてしまった。
2日後、中国音楽学院院長や「人民音楽」編集長も勤めた作曲家で、理論家として中国で最も信頼されている李西安氏から論評のための長い質問を受けた。そこで「この作品はまがうことなく、あまたの琵琶協奏曲の最高峰」と言われ、すでに同様のことを別人が書いている理論書も知らされた。
私の作品は当地で琵琶だけでなく、管弦楽曲や中国の筝演奏家が無数に弾く二十一絃筝作品もあり、世界を駆け回っているマリンバ作品の中国化も進んでいる。日本で出版できない琵琶と二十一絃筝の作品が「人民音楽出版社」から大量に出版されるので、まとめて輸入してもらおうと思っている。でも驚いたのは、なんと李氏編集の「中国作曲家名鑑」に私が載るという事実である。次のオペラ第8作は唐と奈良時代日本の交流がテーマで、帰国早々瀬戸内寂聴さんの台本が少しずつ届き始めた。私は居残り遣唐使のようにかの地に住んだほうがいいのかもしれない。
2003年3月7日
三木 稔
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