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三木稔 オペラ日本史連作 作品紹介

愛怨 AI-EN オペラ全3幕
作曲年◆2005(作曲は7月1日全て完成)
作・台本◆瀬戸内寂聴
時と場所◆8世紀中葉、奈良及び唐(南部と長安)
関連する当時の芸能◆この時期、唐より雅楽や伎楽が輸入されつつあった。一方唐では多くの民族楽器が盛んに演奏されていたが、特に琵琶は盛期を迎え,楊貴妃はその名手であったといわれている。このオペラは光貴妃の秘曲《愛怨》を入手するため雅楽士の大野浄人が遣唐使に加わって渡航し、長安で侍女柳玲からそれを教わることを軸にストーリーが展開する。

ストーリー
 8世紀中葉の遣唐使大野浄人は、大和の聖明女帝から、唐の光貴妃が秘曲とする琵琶曲《愛怨》を必ず持ち帰るよう厳命を受ける。彼は若草皇子との求婚争いに勝って結婚したばかりの桜子を残して出立する。船の遭難で南方に漂着するが持前の囲碁の腕で食いつなぎながら長安に着く。途中、唐の宮廷で重用されている朝慶(阿部奈香麻呂)に出会い、強烈な望郷の歌を聞くが、おかげで光貴妃の誕生祝いの宴に連れられて玄照皇帝と光貴妃に会うことが成る。浄人は、数奇な運命で光貴妃の侍女となっている類まれな琵琶奏者・柳玲とも出会う。しかしその席で、あろうことか皇帝は来るべき自分の誕生祝賀会で催される囲碁大会の勝者に柳玲を賞品として差し出すと宣言する。長く柳玲に横恋慕してきた囲碁名人の孟権は狂喜する。
 柳玲の父は2次前の遣唐使に加わった雅楽師で、唐人の胡姫だった母と結婚して双子の姉妹、柳玲と桜玲がいた。しかし彼は当時の規則で妻と幼い柳玲を長安に残し、桜玲(日本で桜子)を連れて日本に帰る。母が亡くなって一人になった柳玲の少女期は苦難の連続であった。再渡航を企てた父も果て、めぐり合った浄人から事情を聞いている最中に、若草皇子の非業の最後と桜子の死がもたらされる。彼女は桜子の夫である浄人の苦境を救うため、他に伝えたら死刑に処せられるという掟をわきまえつつ、父が作曲して光貴妃に捧げ,自分しか弾けない《愛怨》を浄人に、内密に演奏して聞かせる。突然襲ってきた愛の昂ぶりを抑えることができなかったのだ。浄人は囲碁大会に出場を決心する。やがて祝賀会の日、浄人と孟権の決勝戦では柳玲と浄人の運命を左右する事件が続発、唐時代の大乱も絡み、大波乱の終幕を迎える。

登場人物
桜子(桜玲、柳玲と双子の姉妹Sop)、影巳(陰陽師、Alt)、大野浄人(雅楽士Ten)、
若草皇子(Bar)、阿部奈香麻呂(唐名・朝慶Ten)、隆祥(渤海の商人Bas)、玄照皇帝(Ten)、光貴妃(Sop)、柳玲(桜玲と双子の姉妹Sop)、柳玲に代わって演奏する琵琶奏者(Pipa)、孟権(碁の対局者Bar)、奈良の宮廷おかかえ伎楽者=唐の宮廷の道化、聖明女帝の侍女たち=玄照皇帝と光貴妃の侍女たち
混声合唱=奈良の農婦たち、長安から遠い南の町の群集、唐の王宮の宴に参加の人たち、葛城王の軍勢と隊長、若草皇子別邸の女たち、囲碁競技会の見物たち
舞踊=唐の王宮の宴の舞姫・舞人たち(オプション)

楽器編成◆オーケストラ(3.3.3.3-4.3.3.1-3Perc-Hp-Str)と琵琶(Pipa)
音楽総時間◆2時間30分
アリアなど◆小前奏曲(奈良のイメージで)、桜子《私の愛はどちら》、女声合唱《今日もしっかり働いた》、桜子+浄人《二人で見る月は》、若草皇子《ああ月よ》、桜子《わたしの赤ちゃん》、第一幕間奏曲、男声合唱《鶏三羽で》、奈香麻呂《望郷の歌》、奈香麻呂《あまの原ふりさけみれば》、浄人《いとしの面影》、管弦楽+混声合唱「光貴妃誕生祝賀の宴」、琵琶+横笛《出会い》、光貴妃+女声ハミング《相思》、柳玲《わたしの心》、玄照皇帝《大唐国は世界の華》、混声合唱+管弦楽《皇帝の見る夢》、浄人+柳玲「二重独白」、若草皇子《心あらば》、琵琶秘曲《愛怨》、柳玲《愛の記憶》、柳玲+浄人+混声合唱《愛の記憶》
委嘱初演者◆新国立劇場
初演◆2006年2月17日、18日、19日 新国立劇場オペラ劇場
[初演キャスト・演奏・スタッフ]
桜子/柳玲:釜洞祐子・泉千賀、秘曲琵琶奏者:シズカ楊静、大野浄人:経種廉彦・秋谷直之、玄照皇帝:星野淳・今尾滋、光貴妃:宇佐美瑠璃・出来田三智子、阿部奈香麻呂=朝慶:田中誠・大野光彦、若草皇子:黒田博・米谷毅彦、影巳:三輪陽子・池田香織、孟権:柴山昌宣・小林由樹、隆祥:峰茂樹・志村文彦
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団、ピットの中の琵琶:シズカ楊静(兼)
指揮:大友直人
演出:恵川智美、美術:荒田良、衣裳:合田瀧秀、照明:磯野睦、舞台監督:村田健輔

世界初演評オペラ《愛怨》初演評新国立劇場舞台写真

ヨーロッパ(ドイツ)初演◆2010年2月20日初日で、25日・27日、3月25日、4月19日・27日、5月14日、6月5日計8公演、ハイデルベルク劇場で日本語上演、ドイツ語字幕。尚、全公演ほぼ満席状態という現代オペラでは記録的上演となった。
ヨーロッパ初演キャスト・演奏・スタッフ◆《愛怨》ドイツ初演データー(2010年2月現在)
ヨーロッパ初演評◆ドイツ初演評ハイデルベルク市劇場による纏め(日本語訳)

作曲者ノート
注:《愛怨》世界初演時、新国立劇場が制作した「三木稔、日本史オペラ8連作」の冊子での原稿より転載
 前作では日本初演時に『オペラ《源氏物語》ができるまで』という本を出版してオペラ創作のさまざまの局面を記し、その最後に次作の予告をした。この原稿は《愛怨》の初演の立稽古に入る前に書いている。したがって初演のこと、その反響などは書けない。また、作曲家にとっては音楽が素晴らしく書けて当然であり、音楽用語を駆使して音楽内容を記述しても、音楽そのものを伝えることは難しい。したがってここに書けることは、如何にしてリーズナブルでインパクトのある音楽を引き出す努力をしたかとか、閃きを連鎖させる仕掛けを見つけたか、といった構成の苦心や言葉次元を交えた作曲の経緯となろうか。

 『三木稔、日本史オペラ8連作』とライフワークを定めて創作を進めてきた作曲家にとって、第8作が奈良時代を扱い、古代日本が国際国家である端的な例証として遣唐使に絡む題材、初期仏教、そして当時の芸能として最も高貴な楽器であった琵琶という選択は《源氏物語》作曲中から決めていたが、それに適した文芸作品は見つかっていなかった。《源氏物語》世界初演直後の2000年11月、当時新国立劇場のオペラ・チーフプロデューサーであった小林常吉さんからの新作委嘱と時を接して起こった前立腺がん発覚は、連作完成を反故にしかねない運命的な出来事であった。なぜなら、どの医者も手術の効かない転移確実の第3期進行がんでホルモン治療しか選択肢はなく、治療を始めたら止められず、使い続けると1年〜5年で効かなくなる可能性が多く、その後は手がないという宣告であったからだ。私は楽天的に最長のケースを勝手に適用し、5年で完成させると自分に思い込ませた。台本をお願いした瀬戸内寂聴さんにはがんを告白し、遅くとも2年で頂き、残りの3年で全力投球で作曲と踏んだのである。今から見れば大変幸運だったのは、放射線治療を33回も行ってもあまり効果がなかった治療開始2年目に、世界的にホルモン治療の間歇療法がテスト的に始まり、躊躇なくそれを選んだことが自分に合い、元気に《愛怨》を完成させ、次なる5年計画を立てる気力を持ち続けていることだ。でもこれは僥倖としか言いようがない。

 寂聴さんのご多忙は充分知った上での執筆お願いだった。でも先生のご活躍は想定を超えた。待つ間を利用して前奏曲・間奏曲・後奏曲など器楽部分を先行して用意したり、私の大規模なオペラの特徴となっているIDセリーの特定など、初演時期に対応して人知を搾りつつ連作完成への灯を絶やさずともし続けるしかなかった。オペラは大建築物である。最近のマンション事件じゃないが、作曲家が構造計算を誤ると、上演時にちょっとしたゆれ(ミス)で公演自体が倒壊する危険がある。この期間は結果的にだが作品の音楽構造を考える大変重要な時期になった。3年目の夏には秘曲《愛怨》も一応完成し、少し気が楽になっていた。
 想定から1年近く遅れたけれど、03年8月末寂聴さんから頂いた最終台本は、奈良の都周辺で起こる悲喜こもごもの巴の恋が中国に移り、実際に玄宗皇帝の側近となった阿倍仲麻呂や、囲碁の相手の黒石を飲んだ吉備真備の逸話、仲麻呂に従った吉麻呂が唐の女性と結婚してできた双子、琵琶秘曲や名器、楊貴妃におぼれて政治が怪しくなった玄宗皇帝といった当時類似に起こった実話・逸話を踏まえて、阿倍奈香麻呂(朝慶)という唐の高官、遣唐船の遭難を乗り越えてひたすら使命成就に向かう大野浄人、倭寇のころを連想させる海賊の長・竜勝という強い日本人たちのオペレッタ風冒険譚の面白さに溢れていた。当初の表題も「望郷大和」であった。私の連作の意図とは少し違うけれども、過去のたくさんの例に倣って発車し、部分的に改定をお願いすれば、作曲家のノウハウを駆使して望みを達することが充分に出来るストーリーだと信じた。今ならなんとか初演に間に合わせられるとギヤーをトップに入れ、ご指定の冒頭、奈良のパストラールな小前奏曲、続いて桜子の恋人選び、そして選ばれた浄人との愛のデュエット、若草皇子の失恋のアリアと続く第1場をおおらかに歌い始めた。
 作曲しつつ台本上の渇望をメモし、寂聴さんに直しや追加のお願いを送り続けた。
 桜子・大野浄人・若草皇子という高貴な3人の恋の背景に、当時の日本の庶民感覚を示したいとお願いしたら生活感に溢れた農婦たちの会話が届く。第2場に出てくる宮廷の道化は、長安のそれと紛らわしいので伎楽者にし、舞台転換を容易にするため中幕の前を通路に見立てて、と提案したらすぐOKを下さる。遣唐船の難破を示す第3場に必要な「観音経」や、第4場で浄人遭難の報によって狂死する桜子入水の背景に是非欲しかった声明「散華」のマテリアルも探して送ってくださった。
 小前奏曲同様、後々大きな意味を持ってくる間奏曲を経て第5場では、浄人が流れ着いた南方の国から碁の勝負で食いつないで上がってきた南中国の町の活気を、ト書きに書かれた光景だけでなく群衆の合唱でと望めば、男声向きのヴァイタルでちょっぴり卑猥な言葉が来るわ、来るわ!といった具合。第6場に寂聴さんは奈香麻呂の望郷の念を丹念に書き込まれており、聞き所の一つとなったと思うが、私は、このオペラで少ない重唱の効果を補う合唱の書き足しの許可をいただき、諸々、長年培ったノウハウを「楽しみ」つつ立体的に音楽を構築し、浄人が、いとしの面影桜子に捧げる痛切なアリアで締める第一幕のボーカルスコアを04年春、早咲きの桜の中で幸せに仕上げることができた。

 でも、寂聴さんへのこんな相次ぐ注文は、どんな大出版社の人もマスコミも遠慮するとんでもないことだったと後で知った。だが、第二幕・三幕には、たとえば主役の柳玲(桜子の双子の姉)がアリアでなく激しい踊りを踊るなど、オペラには向かない箇所が幾つかあり、歌詞の入っていない歌部分もわずかだが未解決で残っている。それと困ったことに、何年もかけて作業が続く大作では、作曲家の頭の中でオペラがどんどん動く。そうだ、生き物のように動いていくのだ。台本上でのその対策を寂聴さんにお願いしていたが、更にご多忙になられた先生はもう宇宙人の如くつかまらなくなってしまう。著作や法話などに加え、徳島に新設された県立文書書道館の館長など、実際そのお年にして大変な量のお仕事を切れ目なくなさっているのだ。困った!しかし待てない!第一幕の後、私の仕事に安心なさったのか先生が「自由に変えていいよ」とFAXを下さった意味を深慮し、寂聴さんは後輩の作曲家に言葉を書くいい機会を与えてくださったのだと思うようにした。上演は別として、作品としてのオペラの出来不出来は、伝統的に全て作曲家の責任となる。オペラ作曲経験者たちとよく話すのだが、台本作者が自作を変えることをストイックに許さないケースは最悪だとみんないう。いよいよ腕の振るいどころが来たと武者震いした。
 まず、第二幕冒頭の第7場、光貴妃誕生祝いの宴は、合唱の大唐国讃歌に続き、寂聴さんお望みのさまざまな華麗な踊りが展開されるが、たまたま朝慶と浄人が長途の旅から帰還して登場する。光貴妃は侍女柳玲を呼んで浄人に琵琶を聞かせる。途中から浄人も笛で合わせる。私は秘曲と対照的な軽い《出会い》を書いたが、ピットからのデュエットを聞きながらの当て振りはそう長くは持たず、ここは浄人や柳玲に内なる声を歌わせなければならない。またこの場にはオペラのヒロインたちのアリアが絶対に必要で、その詩(詞)も要る。私の《春琴抄》ではいくつかの地歌・筝曲の名曲を形を変えて取り込んでおり、「借景」は音楽劇では当然許される効果的な手法だ。この景のト書きには宮廷詩人が在席しているとあるのをヒントに、たくさんの唐詩集を改めて読み漁った。光貴妃のために王維の《相思》がぴったりはまった。しかし主役である侍女柳玲が歌うべきことばは既成の詩にあるはずがない。尚、本来秘曲のタイトルとして寂聴さんが付けてくださった《愛怨》が、途中からオペラのタイトルに転用されたが、当然ながらメルヘンに「怨」はない。先生は「愛したとたん 苦しみも生まれる それでも人は愛を求める」ことを強調されて同感だが、歴史オペラとしての太い骨格と人物像設定のために《愛怨》の「怨」をどうしても欲しかった私はずっと頭を悩ましていた。胡旋舞を踊る代わりに柳玲の大きなアリアを作るチャンスである。そうだ!と光貴妃が自ら取り立てて流浪の琵琶芸人から侍女として抱えている柳玲に、続いて歌うよう仕向ける台詞を書いた。そして、帰国した父を想い、親と子を引き裂く運命を怨みつつ、柳玲が、いつも冬の心で凍てついていたわが身の深奥を歌うアリア《私の心》を、詩から書き起こす羽目になったが、今の残留孤児たちに思いを馳せ、ほろりとしながらの筆の運びであった。自分のオペラに自作の詩を「借景」する、まことにいい勉強になった。現実の玄宗皇帝がそうであったように、栄光の果てに少々耄碌が始まったのではないかというような機微を書き込まれた寂聴さんの皇帝のアリアといい対比になったと確信する。その後玄照皇帝は、あろうことか自分の誕生日の囲碁大会の優勝者に柳玲を与えると宣言し一同騒然となる。
こんな大シーンには次の居室に続く転換の時間が必要だが、毎回間奏曲では能がない。第2場もそうだったが、中幕を曳いて王宮の通路のように設定し、そこで柳玲を片思いする孟権と柳玲の会話を設定する。このオペラを構想中の1997年、わたしの琵琶協奏曲を初演した楊静が、楊貴妃が琵琶の名人だったと話してくれたことが《愛怨》のヒントになったが、文化大革命後の荒んだ中国で少女だった楊静が河南省の巡回劇団に組み込まれ、凍傷にかかりながら演奏に駆り立てられた頃の周辺の話がここでも役に立った。その第8場は、柳玲が流浪の芸人だった頃、おなじ旅芸人だった孟権がかばってやった現実を告げ、かれの真摯な恋を示すいいチャンスになった。
寂聴さんが、おそらく一気に書き進んだと思われる第9場の皇帝と妃の居室での会話は秀逸そのものだった。初演で大活躍せねばならない楊静に英語で台本内容を読み聞かせたとき、このくだりで二人とも笑い転げてしまった。この秀逸さは舞台を包む合唱の秘技で加増!といたずらを考える。それを受けた後奏曲《皇帝の見る夢》と合わせお楽しみいただきたい。

実はこれらの景を書いていた04年6月「アジアカップ」サッカーであのブーイング事件が起こり、前後して政治家たちの信じられない発言が続いた。私のオペラ連作はそれぞれの時代精神を現代に通じさせる願望をもって進めており、この事件を契機として、孟権という悪人からヒューマニティを汲み取れる会話や行為の必要を思い始めた。中国での上演を想定して書いていた私は反日・嫌中を好まない。オペラ関連ではないが私は中国に無数の知己がいる。文化大革命終焉後間もない83年に日本音楽集団と訪中し、中央楽団ソリストも加わって演奏された私の8作品が、当時大学院生だった譚盾たち百人もの若い作曲家たちに一種のカルチャーショックを残したことに始まり、89年には唯一の外国人審査員として参加した中国楽器大コンクールの真最中に天安門事件に遭遇、その後も度々講演や公演に赴き、演奏者数が少なくて日本で出せない新箏(21絃)や琵琶作品集などが人民音楽出版社から出版されて日本での何倍も演奏されるなど、私の心の祖形を持った中国である。
この機会に私の信頼する、ある若い演出家に台本の流れを読んでもらって、以後の改定に役立つリーズナブルな意見を貰い、一方、多くの中国人に見てもらってその反応を得たく、日本人より日本語のきれいな北京放送の王小燕さんに台本の中国語訳を作っていただき、彼女を通して必要を感じた細部に修正を施した。ヴェルディの歴史ものには単純な勧善懲悪にパターン化されたオペラが多いが、日本や中国が一方的に善か悪になるのでなく、悪人の善をリーズナブルに引き出し、それが秘曲伝授に絡む物語の音楽的展開の骨格を強化させられないかと考え続けたわけだ。
第10場はストーリーの事実関係を示す重要なシーンだが、私は、このオペラに関わる遣唐使は奈良時代最初の717年(養老1年)に出発した組、次の733年(天平5年)出発組、そして752年(天平勝宝4年)出発組の3回だと自分なりに計算していた。双子たちの父で養老時の遣唐使だった紀晴河が、天平時の遣唐船で桜子のみを連れて帰国したものの、唐人の妻と柳玲に会いたくて再び唐に渡るにも遣唐船は20年近くも出ていない。新羅とは当時関係が悪く、朝鮮半島を通れないから遣唐船の遭難が多かったのだが、長安に到る方法として、高句麗に代わって当時(戦前の満州の地に)興隆していた渤海国に日本海経由で入るルートを思い当たった(740年に第2回渤海使)。室町時代の倭寇が連想される海賊竜勝という便利な_ぎ役に拒否感を持つ中国人が多く、日本人でも唐人でもない渤海の商人隆祥に置き換えたが、第3国利用という外交の秘訣を掴んだ思いがした。
もっとも、オペラがここまで進んだところで会話が主になるのは辛いと危惧していたが、寂聴さんの台詞「遠い子供の日々よ」で始まり「誰も自分の運命の明日を知らない 人が生きていくのは愛するため」「愛したとたん苦しみも生まれる」と柳玲、「それでも人は過去から未来まで愛することが止められない」と浄人、「愛は予告もなく訪れそれを防げない 恋はひめごと 報われぬひめごと」と柳玲に続く二重独白を音楽稽古で聴いて、私は深い満足感に浸れた。きっと先生もそう感じられるに違いない。この後、柳玲が秘曲伝受の決心を告げるが、隆祥がもたらす大和での大悲劇に、オペラが次なる激動を予感させつつ第二幕を書き終えたのは第59回目の終戦記念日の翌日、日本体操選手がアテネ・オリンピックで大活躍中で、妻那名子が古稀を迎えた日だった。 

第三幕冒頭、後半に日本での独立したシーンが欲しかった私は、寂聴台本では前景の中で若草皇子が亡霊として現れて語ることになっていたくだりを、独立した第11場に拡大した。後の長安での事件と対比したシーンが必要ではないかとの友人の提案もあり、当初の台本と、寂聴さんから新たに頂けた分を合わせて再構成させていただいた。罪人にされた皇子が歌う「心あらば わが曳かれゆく 死出の道の 草さえ枯れよ われを傷みて」を受け、合唱とオケが冤罪を叫び、やがて静謐の中でアカペラの合唱が大和の平和を祈る。
それを受けて、いよいよ決意した柳玲の秘曲伝授の第12場が来る。今までの私のオペラで民族楽器がオケとコンチェルト的に機能してドラマを盛り立てる独自のスタイルを確立したつもりだが、《愛怨》では遂に民族楽器のソロが舞台中央で視覚的にも主役の一角を担うことになった。楊静という希有の奏者がいたからだ。でも短すぎては秘曲の重みは示せない。その必要な長さがドラマのバランスを崩さないよう、演奏の真最中に孟権に覗き見をさせて柳玲服毒の運命に導くアイディアを得るのに2年もかかった。前半はソロで格調を示し、後半は弦中心のオケを伴う。最初に書き終えていた後半がここまで進んでくると気に入らず夏場に書き直し、総花的なショウピースとせず、琵琶秘曲《愛怨》は、使う技術を限定した、いわば本曲風の精神性を目指し直した。
この後にも舞台転換が必要になる。激しくとも神秘的な秘曲演奏と対極の庶民性丸出しの男女の会話が幕前(試合会場前)の第13場で展開され、その合間には、愛に死ぬ覚悟の柳玲と、使命感や柳玲を守る気持ちの段階の浄人との微妙な意識の差を音楽に書き込む必要があった。
時間的には連続して第14場の囲碁大会が始まる。そうそう、碁の勝負で如何にして主役からのカタルシスを聴衆に伝えるかは難問だった。浄人の遣唐使としての使命感を示す第一幕の間奏曲で、オーケストラに前へ前へ進み続けるイメージを設定したことが碁の勝負に生かされたはずだ。寂聴さんが書かれた柳玲の最後のアリア《愛の記憶》の中に、「愛は何の前触れもなく ある日 雷のように落ちてくる」という激しい言葉が出てくる。私は、このシーンの冒頭で、浄人と孟権が碁盤を囲んで真剣勝負をしているのを遠くから見守る柳玲に、それらの言葉を途切れ途切れにモノローグさせて、前進するイメージのオーケストラと、明かりも合わせフラッシュバックさせた。先生の言われる「報われぬ秘めごと」となり得たであろうか。
勝負に負けた孟権が飲み込もうとした黒石は、注意していた浄人に払い飛ばされ、「対局違反」で浄人の勝ちが宣言されるが、そこで秘曲伝授を覗き見した孟権のわめきに形勢は逆転する。このあたり合唱のエコーが大いに効果するはずだ。しかし柳玲は用意した毒をあおり、「浄人にはお咎めなく」と懇願する。柳玲一人の犠牲でいいのかどうか最初の段階から寂聴さんと相談を重ね、最終的にはここで浄人に「私はあなたと同罪 愛する人を 一人で旅立たせはしない 私も共に死んでゆく」と歌わせた。
この後の愛のデュエット(アリアと同名《愛の記憶》)がどれほど強い印象を残すか、それはこのオペラの真価を問われる大問題だと最初からずっと考え続けた。浄人のこの言葉だけで満足せず、その術を求めて時代を考証していって私は根っから驚いた。その年(755年)はまさに唐をゆるがせた歴史的大事件「安禄山の乱」とぴったり符合するではないか!《愛の記憶》の熱唱は、「反乱軍来る」の報に寸断され、騒然と逃げ惑う宮廷の人々が突如ストップモーションになる。かすかな弦のクラスターのみが耳鳴りのように持続する無限の時間の果てに、琵琶のハーモニックスの下降コードに引き出されて二人の熱唱が回帰し、歌い終わって柳玲は浄人の腕の中に倒れこむ。逃げ惑う人々など石になれ!残るのは二人だけだ !!
クライマックスに継起する断絶と持続によって、生きていようが死に至ろうが、「愛」は、まがうことなき真実と永遠性を得るに違いない。

作曲段階での多くの考証や追加の結果、私は寂聴さんの痛快きわまるメルヘンの色合いを違えてしまったかも知れない。いや違う。先生のこの懐の広い原作あってこそ、私は楽興に乗って4次元に飛翔できた。極限の超多忙のせいだけでなく、大作家にしかできない寛容故に私に最大限の自由を許してくださった先生は、折々の改定に全部目を通しチェックしてくださっていたが、作曲完成後の最終台本を読まれて私の頑張りを誉め、「このオペラを基に小説を書こうかしら」とおっしゃってくださった。史上、オペラが先で後に小説が出来た例など知らない。まさに作曲家冥利! 私は寂聴さんとの共同作業がオペラ創作史上最高のレヴェルで遂行されたと確信している。

残念ながら文化や芸術は、政治や社会の状況に左右されてしまう。近年の推移を見ていると、89年の大事件直後に書いた《北京梼歌Beijing Requiem》と, この《愛怨》を、中国で生きて見届けることは叶わぬ夢と思わざるを得ないが、いつか必ずかの地の劇場で市民を沸かせていることを信じ、祈りつつ、05年7月1日フルスコアが脱稿して《愛怨》は完成した。周囲に誰もいない夏の仕事場の窓から南アルプスに向かって、私は最大限の音量で吼えた。
一度は途中での挫折を観念していた『三木稔、日本史オペラ8連作』が33年を要して完成した。他人の喜びを喜びとする「愛」がこの完成を導いてくれた。そのことを人々が実感してくれるのに、おそらく百年はかかるだろうが、私は今、ヒマラヤ連邦を踏破して、遂にエヴェレストの頂に立った想いでいる。


三木 稔