中央アジアに起源して東西に分流した楽器のうち、東に流れた楽器たちは、国ごとに各楽器の伝統社会を作り、国や民族を超えて音楽しあうことは殆どなかった。
欧米と競いつつ政治や経済は今激動している。当然アジアの文化も岐路に立っている。西洋で開発された高度な音楽文化の消化だけでは困る。東洋の古い楽器や伝統技術を活用しつつ、新しいアジアの形と心を持った音楽の創造は、エスニックでポップな流行と並んで必須の活動であり、いかに危険で困難であっても、また無償に近い行為であっても、誰かが身を挺して始めなければならない。その長年の想いが、新世紀、やっと『アジア アンサンブルAsia Ensemble』(略称AE) の創立に繋がった。
アジア アンサンブルの目標
- 『アジア アンサンブル』は、たくさんあるアジアの民族楽器の中で、改良が進んで最も性能の高い楽器を選び、かつ、その楽器のトップ奏者のみで構成する世界初の楽団として企画した
- 『アジア アンサンブル』は、21世紀が最も必要としている諸民族・諸文化の〈共生〉のみならず、その〈共楽〉を目指し、聴衆を置き忘れた前世紀とは違う音楽の真の喜びに向かって努力を重ねる
- 『アジア アンサンブル』は、各楽器の既成の名曲を聞かせるだけでなく、国境や民族を越えたそのアンサンブルのため、今まで存在しなかった作品を高いレベルで創造し続ける
- 『アジア アンサンブル』は、上記目標を達成するために必要な技術を持ったソリストが得られる東北アジア諸国の楽器のアンサンブルからはじめ、将来全アジアに楽器と人材を広げる
アジア アンサンブルの沿革
私は、1964年に始まった『日本音楽集団』によって全ての日本楽器が合奏できる環境を創成し、83年中国の「中央民族楽団」との共演によって史上初の二国間民族楽器群同士の共同作業に漕ぎつけた。89年には日韓共演が実現し、1993年に創立した『オーケストラ アジア』によってアジアの楽器群の大合奏を推進する基盤作りが完成したと考えた。どちらの場合も、歴史上かつて存在しなかった楽器編成であるため、次々と作曲して、レパートリーを整備しなくてはならなかったが、幸いどちらも聴衆を満足させる作品をかなりの数残すことが出来た。しかし公演を推進する中で、楽器や技術の完成度と志向の質のあまりの違いから、自分の理想とする演奏や企画体の完成には、当然のことながら数十年の時が必要なことを知覚するしかなかった。また必要な資金を得るためにバックアップする体制はのどから手が出るくらい欲しかったが、そのようなことは絶望的に不可能であった。
一方、スポーツでもそうだが、チームが多数の顧客を得るには、特別な技術と人間性を備えたスターが必要である。問題は大きな組織がスターの力量を限りなく伸ばす環境を作りにくいところにある。邦楽を含めたアジアの民族楽器には、西洋楽器のスターたちに負けない力量を持ったソリストがかなりいるはずであり、彼らを大きな組織の中に埋没させず、より広いメディアの中で光り輝く存在にするため、アジアの民族楽器ソリストたちだけの自由なアンサンブルを創設するのが、私の次の仕事だと考えるようになった。
40年前から、大きな合奏体での仕事は度々壁に突き当たったが、それらの実践の中で素晴らしいソリストとの出会いがいくつも得られたのが、私にとって何よりの力となった。オペラ《源氏物語》作曲に入ろうとしていた私に《琵琶協奏曲》を書かせるインスピレーションとエネルギーを与えてくれたシズカ楊静との1996年の出会いはその典型的なものであった。長年信頼関係で結ばれてきていた尺八:坂田誠山と新箏(21絃箏):木村玲子とのトリオが、早速次の97年「上海の春」音楽祭から実現し、私の『結アンサンブル』 の一形態、あるいは『アジアのソリストたち』の名で国内のみならず香港・バリ島・ハワイなどの公演を重ねた。このトリオは個々の演奏技術、アンサンブル力、志向からいって私が絶対の信頼を託せる、何ものにも変えがたい宝ものである。その活動のために《源氏物語》のエッセンスを集約して作った《平安音楽絵巻》のトリオヴァージョンなどのレパートリー作りも進めた。
この3人をコアとして夢を飛躍させるチャンスが《源氏物語》世界初演の後に来た。私は81年《急の曲》世界初演直後にクルト・マズアに、アジアの民族楽器群とオーケストラ、そして第三楽章には6人の声楽ソロと合唱が加わるという編成で巨大な《地球交響曲》を書く約束をしていた。その期限が2000年であったが、オペラの過酷な創作続きで、とりあえず25分ほどの第一楽章《大地の記憶》だけでいいことにしてもらい、2000年11月24日、マズア指揮の読売日響がサントリーホールで世界初演した。そのとき民族楽器群として尺八・琵琶・新箏に馬頭琴と2人のガムラン打楽器ソリストを選び、『アジアのソリストたち』の名で出演したわけだが、これはまさに『アジア アンサンブル』のスタートであった。 したがってAEの最大のレパートリーは現在《大地の記憶Memory of the Earth》である。
このときの馬頭琴奏者は五線譜でオケと共演する訓練はできておらず、練習でマズアを激怒させたが、アジアで高度なアンサンブルを続けるには、各楽器の人材を得るのに今後も苦労するに違いない。その確かな情報を得ることと持続する信頼の獲得なしにAEは存続不可能である。
作品や演奏様式でも、必ず八方からの批判にさらされよう。人間たちが東西で築いてきた既得の価値観は頑強に保守され、新しいものが取って代わることはあらゆる面からいって途方もなく厳しい。素晴らしいソリストたちの演奏があるからこそドンキホーテのように夢を紡いでおられるだけだ。
2002年、アジアの中で最も楽器の改良が進み、音楽的に高い次元の演奏家の多い中国と日本の、特に優れたソリストたちによって『アジア アンサンブル』が稼動する環境が整った。アジアから日本に学びに来ているユーラシア地域の留学生を中心に「大地の響き」という音楽ユニットを主宰しているNPO法人「ユーラシアンクラブ」代表の大野遼氏が、『アジア アンサンブル』や楊静のリサイタル、そしてシンポジウムなどと一緒に『アジア・シルクロード音楽フェスティバル』を愛知県岡崎市シビックセンターの新しいホール「コロネット」で始めようと誘ってくれたのだ。私は、改良を経て優れて表現力の大きいアジアの3つの代表楽器のトップ奏者である坂田・木村・楊静の3人を核にして、管楽器・擦弦楽器・抱弦楽器・伏弦楽器・低音の抱弦楽器でバランスの取れたアジアの室内楽が出来ると考え、二胡(または馬頭琴)と大三弦を追加して5重奏を組織した。楊静の紹介で大三絃の費堅容を知ったこと、二胡は多士済々と思ったからである。そして モOriginモを作曲して、歴史的な公演の最終曲目とした。昨03年は、若いが将来性豊かな馬頭琴のバトエルデネを発見し、日中だけでなく(外)モンゴルが加わって3国の楽器アンサンブルに成長した。佐藤容子とマーチン・リーガンに新曲を委嘱し、未来への広がりのきっかけとした。今年中国の作曲家への委嘱新作が間に合わなかったが、作風や様式をしばらく固定せず、レパートリーの拡充を図りたい。
『アジア・シルクロード音楽フェスティバル』は岡崎のみならず、一種の移動フェスティバルとして昨年は宮城県・宮崎県・東京にも広がり、今年は福島県も加わった。地方の聴衆に必須の、周知のメロディーを編曲したファミリーコンサート的な曲目も6曲出来た。昨年録音した音源で、AEの顔になるCDの発売にもこぎつけた。今後、上記移動フェスティバルを活動の基礎としつつ、随時東京や海外のシリアスな公演を催す中で、レパートリーを追加し、その演奏の錬度を向上させ、所期の目標に向け新しい血を補いつつ走り続けたいと思う。
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